前日の12時13分
実に困った状態にあるのは間違いない。
面白いコラムになる自信が無い。という布石と共に、只今コラム公開前日の2021年2月28日12時13分をお知らせする。
密かに書きためていたコラムネタ。町田氏と永野氏にしてやられた!
してやられたとは言葉が悪いかもしれないが、私は素直に「ぎゃふん!」と思ったのだ。書きためていたコラムネタがパーだ。
町田氏のコラムはデザインについて私が書きたかった、伝えたかったコトが明確で力強い言葉で綴られ、永野氏のコラムでは私も書き進めていた「小説」というスタイルをテーマに進み、その背景や自分の経験などを綴られている。
このお二人のコラムを拝読して、その完成度におののくと共に、この悲しみ、焦り、嫉妬、絶望と言った感情をどう表現して良いのだろうか?
こればかりは、完全なる私の恨み節だ。彼らには一縷の罪も無ければ、反省を促す要素などあろうはずもない。ただただ私の独りよがりな「ぎゃふん!」なのだ。
そしてこれらのコラムがまた面白く完成度も高いため賞賛でしか無い。くやしい。実に悔しい。笑
このやり場の無い無情でマーブル模様な焦りが私を包み込まんとしている現状に対し、超絶素敵なアイデアが全く浮かんでこない自分の発想力の無さに憤慨しているのだ。
さて、何を書こうか。
既に時計は既に3時間を経過し、15時を指そうとしている。
59ZB
そういえば最近、世の中の違和感を感じている。
厳密に言えば「世の中」ではなく自分という人間の社会的な位置づけに対しての違和感かもしれない。
59ZB(ゼタバイト)が2020年の人間の叡智の総容量のようだ。
アメリカのIDC(International Data Corporation)によると、2020年に全世界で生成されたり消費されたりするデジタルデータの総量が59ZB(ゼタバイト)とのこと。「ゼタバイト」とかもう意味不明。超高速と言われる「5G」が2時間程度の映画を約3秒でダウンロードできると言われるのだが、計算が間違ってなければその5Gでのダウンロードに28万5千7百年ちょっと掛かるデータ量だ。
○2時間の映画 = 7.2GB = 3秒
○世界のデータ総量 = 59ZB = 64,871,186,038,784GB = 9,009,886,949,831秒
と言うことは、約150,164,782,497分で、約2,502,746,375時間。
そして、約104,281,099日で、約285,701年と8ヶ月。
今日ダウンロード完了したとすると、ダウンロードを実行したのはまだホモサピエンスでもなく、ネアンデルタール人でもなく、北京原人の方がポチったレベルの時間スパンだ。
とまあ、途方もないデータが世界には存在していることになっているらしい。
もっとも、5Gで映画が3秒でダウンロードできるなんてのは都市伝説に近い理論値でしかなくて、実際は数分程度は掛かるのが現実らしい。この辺はたてヨコ愛媛のSCMYプロジェクトで「5Gはシュレーディンガーの猫だ!」って結論に至った部分でもある。
ちなみに、脳の容量ってのも研究によってどんどん変化しており、今の見解だと大体150TBだそうで、脳をフルにつかったとして、4億2千人分の叡智。まあ、だからといってどうなんだという数字でしかないのだが。
あなたは車輪、何個持ってますか?
さて、皆さんに質問したい。
「あなたは車輪、何個持ってますか?」
私は妻の2人家族で電動キックボードまで入れると20輪。
内訳は
普通自動車 1台
軽自動車 1台
大型バイク 1台
原付自転車 1台
ママチャリ 1台
マウンテンバイク 2台
電動キックボード 1台
愛媛県内もしくは都市圏以外であれば、1家庭あたりの車輪数としてはさほど多い方では無いと思うが、3年前まで住んでいた兵庫県西宮市や関西経済圏の都市部世帯としては、車自体を所持してない人も多く、かなり世帯あたりの車輪数はかなり多いとよく言われた。私が乗り物好きなのは明白である。
先日Startup Weekend 愛媛などでもおなじみの立命館大学の林 永周講師が産学連携プロジェクトの1つとして発表した「未来の自動車社会に対する意識変化」の若者へのアンケート調査結果が興味深かった。昨今「若者の車離れ」をはじめとする「若者の○○離れ」を良く耳にするが、この調査では結論として、「若者の車離れが進んでるとは一概に言えない」との結果を示していた。
ただ、私が気になったのはアンケート内で若者が車に乗らない理由の1番として上がっていたのが「事故が怖い」だったことだ。
事故は怖いに決まっている。誰も望んで事故したい訳ではない。だがどうなんだろう、30年、40年前の若者もこぞって車を購入してた頃と比較して、交通事故自体は車の性能向上も含めて激減しているはず。
新聞取材に対して、林講師は「自動車メーカーは高齢者の安全面でのアピールに集中している。若者へのアプローチが足りてないからでは」と解説されている。
その一方で、発表された資料によると、大学のキャンパスなどでの車の展示など積極的に行い、若者へのアプローチが行われていない訳ではないし、むしろ私達が大学時代に車のディーラーやメーカーがそんなことをしてくれた記憶は無い。
きっとなにか、根本的なことを私達は見落としている気がするのだ。
若者の車離れ。
車がステータスだった時代
車所有がステータスであり、車のグレードこそが近隣住民カースト制度のものさしとなっていた1980年代。今更、老害と言われる先輩よろしく、ノスタルジックに浸り高度成長期やバブル時代を世の春と讃えるつもりはない。
凄く面白くもない話をするとすると、私が大学時代をスタートさせたのが1991年。
世はバブル真っ最中で、今の人達には信じられないだろうが、世界が日本に羨望のまなざしを向けていた。世界中で日本語を学ばなければビジネスにならないと言われ、不動産もただの転売で数分で何千万円が手に入る時代。
この時代、ある意味みんなが「手塚治虫が描いた未来予想図」を闇雲に追いかけていた。
そこには空飛ぶ車が走り、透明のパイプの中を流線型の列車が走り、壁がテレビになったリビングで、ロボットが料理や家事、掃除をしてくれるという未来。ほら幾つかは現実にあるではないか。
大学での専攻がプロダクトデザインで、元々カーデザイナーを目指していたのもあって、当時から車やバイクは好きだったし、周りとの会話も当然車やバイクの情報やカスタムの話などが溢れていた。それは経済学部に行った友人でも同じだった。
もっとも、バブル時代には車が無いとデートに誘っても来てくれないとかザラであったし、トレンディーなデートスポットは車で行く場所に存在した。電車でデートに行くなんて貧乏くさいことは当時の恋愛という名の「非現実世界の演出合戦」の中ではあり得なかったので、学生でもバイトにあけくれ、中古でバイクや車を持っていた時代だった。そういう私も学生時代にはホンダのCR-X SiRに乗っていた。デートもそれなりに行ったが、どちらかと言うと山を走って遊ぶための私の愛車は女の子には評判は良くなかった。笑 彼女達は普通にフェラーリだのポルポル(ポルシェ)、ベンべー(BMW)あたりを御所望であったな。
※NAでリッター100psのVTEC「B16A」。今でもたまに欲しくなって、中古車サイトで物色してしまう。
非現実世界の演出合戦
車はマストアイテムであったし、若者はみんないわゆるトレンディドラマの主人公をオーバーラップしていたに違いない。背伸びしてDCブランドのスーツを身にまとい、クリスマスにヘリの貸切や、クルーズ船のディナーなど当たり前の時代。笑
学生の身分ではバブルの恩恵は全くなく、むしろ就職氷河期初年を味わった私ではあるが、乗り物が好きは変わってはいない。だから、世帯で20輪もかくまってるんだろう。車も基本はMT乗りだし。
さて、この高度成長期からバブル時代。良いのか、悪いのか。
トレンドはおしゃれな雑誌が生み出しある種のデートマニュアルなどを形成していく。
彼女もいないのに翌年のクリスマスイブのホテルの予約を必須とした時代。今から見ても本当に愛すべき滑稽な時代だ。今、SNSで韓国コスメが流行るのも、Youtubeからテレビタレントが出てくるのも、基本構造はきっと同じ。昔も今もメディア情報に大衆は流される。人間社会なんて大なり小なりそんなもんだ。ただ、さらされる情報量が違いすぎる。
今はその「59ZB」に脳のかなりの部分を依存しても、普通に、一般的に、特に気にすることも無く生活をすることができる。しかも、その59ZBの情報ストリームをあたかも自分で思考し、たどり着いた結果であるかのように錯覚までしてしまう。
脊髄反射的な解
先のアンケート調査で出ていた「事故が怖い」という単語。
これは59ZBの中で見付けた車を持たない理由に対する脊髄反射的な解なのではないかと私は思う。
過去に事故を経験した人間が言うのなら解るが、アンケートの中でマジョリティーを締めるほどみんな事故には遭ってないだろう。
この精髄反射的な解を求めるのは、学校のテストが良い例だ。そして今はその解を脳に刻まなくてもネットワークを通じて、検索するだけで出てくる時代。
松山の良いところを羅列してと松山在住の女子高生に聞いたときに出てくる単語。
「空気が綺麗」「魚が美味しい」「人が優しい」など。
彼女達は「松山の良いところ」という問いに対して、こう答えるという脊髄反射的な返答をしているだけで、彼女達が空気の汚い場所で、ギスギスした人との接点を持ちながら、不味い魚を食べた経験があって、それと比較する自分の思考と判断によって松山の良いところを言ってるのではないことは誰の目から見ても明らかなことである。
ここだ。
ここが決定的な部分なのではないかと言う気がしている。
「松山の良さ」などという普遍的で実に下らない質問は情報量を必要としないし、その脊髄反射的な解は脈々と松山市民の中で語り継がれている。松山に限らず、他の街でも全く同じ構造のはずだ。
さまざまな世の中の事象に対して、今はお手本的な解がネットにありふれすぎている。そこに感情的だったり、経験値だったり、疑問だったりの自分ながらの思考する必要がなくても生きられる。いやむしろその方が品行方正風に生きられるというある種のサバイバル術みたいなものをこの時代を生き抜くスキルとして身につけてるのかもしれない。
困ったな。
脳の外在化が「記憶」だけではなく、知らぬ間に「思考」にまで及んでいると言える。
仮説として。
あくまで仮説としてだが、昔の情報量では自分が思考したと勘違いできるほどの答えを得ることができなかったんじゃないだろうか?
昔が良いとは言わないが、絶対的な情報量がない。
そうすると、誰かに会いにいかねばならないし、そもそも知りたい情報にリーチするために今とは桁が違うほどの労力を要する訳だ。自分で考えないといけない要素が多かった。
情報量が少ないとどうなるのか。
人心が1つに方向に一致団結しやすいという側面がある。
実は日本人を含む農耕民族はこれが得意だったんだろうなと推測する。
あの頃、日本は同じ目標、幻想に向かって同じベクトル上で戦っていたように思える。どんな経済学者も当時の日本経済の未来に否定的だったとは思えない。人は時として目標がその組織に純然と全体化した時、実力以上の行動ができるのではないだろうか?
それは、昨年の宅タク便PJでも証明できたと思っている。あの時私達はパンデミックという個々が経験したことのない時代に突入する瞬間にあり、それらに対応するだけの情報はネット上にもほとんど存在していなかった。だからこそ、答えや思考をネットに依存すること無く、国内でも唯一といっていいオリジナルのサービスにたどり着けたのではないかと思うのだ。
つまり、「情報の無さ」こそが創意工夫などの思考をアクセレートさせる要素となり、そこに生み出される共有のビジョンが集う人々にとって高解像度で共有できる事で、ディール組織やスタートアップなどとして評価されるムーブメントに繫がるのではないだろうか?
情報量を減らせば、売れるのか?
じゃあ、情報量を減らせば、若者に車が売れるの?
否。
情報量を減らすと事はもはや、若者だろうと大人だろうと無理だ。
情報格差はあるにしても、リテラシーの高い人ほどその圧倒的な情報量に晒されてしまう。ただ、「情報」とは生モノで「解」とは誰かが調理したモノであることは明確に認識しなければならない。
そう。
私達大人は下の世代に対して、「真実を伝える」という意味をはき違えて、大変な事をしているのかもしれない。
口では夢を見ろとか、希望を、ビジョンをなんて言いながら彼らの未来を潰しているのは紛れもない私達なのかもしれない。
ネットには沢山の事故の瞬間の映像がある。
ネットには沢山のハッピーなドライブやツーリングの映像もある。
だが、テレビでも高齢者の暴走事故やあおり運転の映像が連日繰り返し流れ、絶対正義vs悪者という70年代アニメのような構図を描き上げる。なにもメディア批判などするつもりはない。それはやらせでもなければ、事実として社会から排除すべき悪の事象であることは間違いないから。
だが、その逆。車に乗ってハッピーな映像はほとんどテレビなどから無くなったのではないか。それがネットにあったとて能動的にアクセスしてまで人のハッピードライブを見て楽しいとは思えるひとは少ないだろう。
残念ながら我々は人の不幸が大好きであるという闇を持つ。その実、ワイドショーは基本的に自分の周りではない人の不幸を社会正義の名の下にきちんとエンターテイメントに仕立て上げていると言われるも、もう何十年も普遍的にこのスタイルを貫いている。そしてそれが社会のメインストリームのメディアとして映像が氾濫する。
情報量が圧倒的になった状態では負の情報がエネルギーを持ち、それによって真綿で首を絞めるごとく緩やかなネガティブキャンペーンを無意識のうちに展開した結果なんじゃないだろうか?
私達の言い分
ただ、私達の言い分もある。
デザイナーやアナリストがUXデザインとして未来の素敵なシーンが必要だと言ったところで、それはミクロな事象を描いてるに過ぎず、マクロ視点、もしくはグランドデザインとして誰も描けやしない。いや、描いたところで、バブル崩壊やリーマンショックなどで自分たちが夢見た未来が幻想だったと思い知らされた経験から、誰かが描いたUXを心から信じることに社会としてトラウマを持っているはずだ。そして、そのトラウマから抜け出したいと思い続けた時代に平行して発展したネットという莫大な情報の雨にさらされた結果、思考を含めた脳をネットに外在化させてしまったのではないかと考えている。
漫画家が魅せてくれていた未来
僕らは手塚治虫になるべきだった。
僕らは藤子不二雄になるべきだった。
若者の○○離れを悲観するのならば、ペイフォアード的に「ならなければならない」のかもしれない。
少なくとも、今の子供達の未来予想図に、空飛ぶ車も走ってなければ、タイムマシンもタケコプターもきっとない。
じゃあ、目の前の車やバイクに未来や素敵なUXを見いだせないのは当たり前な気がする。
その素敵なUXをビジョンとして共有できない世の中が一丸となって素敵な未来を目指せる社会になんてなりやしない。
情報の遮断と思考時間の確保
私はバイクで走るのが好きだ。基本はソロツーと言われる1人で走るのが好きだ。バイクで走ってる間、ネットからも情報からも半径50m以上離れた他者からも解放される、孤独になれる。
そこでは安全に対する緊張感の中で、実に下らないことを考えている。少なくともその時の思考はネットに接続されていない。バイクで走っている時間はデジタルデトックスに近い。
もちろん若者じゃなくても事故は怖い。怖がるだけの経験値もある。でもその事故に対する無防備な恐怖感よりも、そこで得られるUXは何かに代替できるものではない。
来週土曜日に我が家の車輪が2輪増える。
死亡事故に近しい乗り物であることは重々承知だ。だからこそ、ライダーのモラルとして必ずプロテクターなどのできる限りの安全装置を身につけてる。半袖で走ったりはしない。
颯爽と風を感じながら、外在化した脳とは接続せず、実脳に蓄積された不十分な情報の中で「自分勝手な思考」を楽しみたい。
時計は18時09分を指していた。