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たてヨコラム

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歴史ライフスタイル

海運と塩田で発展した伯方島にUターンし、この土地で外と繋がり生きていく

私は、しまなみ海道の島の一つの島、伯方島で長女として生まれ、弓削商船高専の情報工学学科を卒業し、22歳まで自分が生まれた故郷で生活をしていました。31歳になった今年、父の入院・手術があり、関西、福岡を拠点に過ごした生活に終止符を打って地元にUターン。親が子供を見るのは義務だが、子供が親を見るのは義務ではない。けれど、いつかこういう日が来ることはわかっていたので、私がどこにいても豊かに生活ができるように20代は準備をしてきた、と私はこれまでを都合よく解釈しています。

島での生活で外との接点を持ちながら、仕事や生活が成り立つことなどは到底不可能と思っていた20代の始めの私、自分の望んだタイミングとは違うこの機会に地元に戻り、10年不在にした地元がこれほど魅力的だったことを外に出たからこそ気づきました。島で育ちの生粋の田舎者の私は、都会も田舎もどちらの魅力も知ることができて、地元の見え方は、随分変わり、スーツケースを持ってバス停で待つたびにすぐに広がる噂や窮屈さにも何とも感じなくなってきました。

20代はこれまで大阪、兵庫、福岡を拠点に流れるように生活してきた中で色んな出会いがありました。どの土地でも人に可愛がってもらい、各拠点に幅広い世代の色々な友人知人ができました。色んな経験をさせていただき、人との出会いの中には同時に美味しいお酒やご飯の記憶も山ほどあります。今治の海鮮料理は絶品ですが、違う土地の美味しい海鮮も味わってきました。ご飯に行く時に連れて行ってくれた人は、到底想像がつかないほどの苦労の経験がある方が多く、「よく頑張っているな、諦めるなよ、這い上がれよ」といつも励ましてくださいました。そういったご縁がたくさんあり、少し寂しくも、支えられて生きてきました。

20代は特に自分の思い通りの生活にならないことが多々あった中で、想像のつかない30代に恐れを感じながら、今できることをやり続けて、失敗もたくさん経験しました。20代事務員を退職後に、個人事業主として仕事し出したのは、中国工場で製造した製品を日本に輸入し、amazonや通販サイトで販売し、自社ブランドを作ることを未経験からやってきました。中学生のときに今思うとよくやっていたなと思うのが、個人で輸入経験をいた、そんな経験が生きているのかもしれないです。コロナの渦中2020年にフェムテックの分野に注目し、その分野で起業し、ブランド企画を行い、無知な上に経験もない、人脈もない中で資金調達を経験し、創業したその会社を今年2023年に株主の一人に代表権限を譲渡し、今は格好悪くも気にせず、無職です。人にも自分にもとても疲れましたが、そんな時期を知ってよかったとも思います。

会社をしているこの間に結婚も離婚も経験しました。今何もなくなった私は、無と言っても、何も残っていないわけではないのですが、会社をしていたこの3年は、とても暗くて長い、少しの希望を持ち続けた3年間でした。島に帰り、自分のルーツに実直に向き合う中で、愛媛での繋がりも今少しずつできてきました。

前置きが長いのですが、この20代の出来事は文章にしても綺麗事になりそうなので、今回は地元のこと書きたいと思います。人にはあまり自信を持って言えるようなことばかりではない中で、色んな経験を経て島に戻った今、島の家にこもっていても誰かとこうして繋がり、選択肢が多くあることは、心豊かに生活をする上で私には必要と思っています。

鶏小島

伯方島の人口は30年前に比べて約半数に減少したが、注目される島のひとつに

伯方島は私が小さい頃は人口1万人ほどの島でしたが、役所で住所変更をするときに現在の人口を見ると約5000人の島になっていました。この島は島と言っても、離島ではなく、コンビニ、ホームセンター、ドラッグストア、病院があり、高速道路が通っていて24時間島を出入りできるので、住めば都なんてよく言われます。出張なんかがあるときには、新幹線だと1時間ほどで福山駅(広島)に行けるし、飛行機を使うときは、松山空港までは1時間半ほど。この移動中の待ち時間の暇つぶしが得意なのも、島の人ならではかもしれません。

しまなみ海道の伯方島は、橋がかかっているので、尾道から今治市までサイクリングを楽しむ人や、キャンプを休日に楽しむために、遠方から旅行に来る人はとても増えました。県外で仕事で打ち合わせをするときも、今治に自転車やバイクで来ました、なんて方にもたくさん出会ってきました。

島にある開山なんかは春は桜が絶景で、海は誰にでも教えるのは惜しいくらい穴場の場所がいくつかあり、誰もいない場所で毎朝愛犬との散歩で季節ごとの海を楽しんでいます。瀬戸内海の海の色は瑠璃色で、深い青緑の海です。初めて沖縄の透明度の高い海を見た時は衝撃でしたが、この海がこの土地で育った人の思い返す海の色です。

車で1周わずか20分、小さな島にもかかわらず、造船、製造(伯方の塩)、海運業(船主が島内には多数)で発展してきました。

かつては塩田を用いた製塩業が栄えて、塩田が廃止された後その跡地は養殖場に。私の学生時代はこの養殖場で、鯛の鰭を切ったり、また私の叔父が漁師をしているので、大量のカラコギを40キロ捌いたり、なかなか今の生活からは想像つかないような、真面目で人と会わないようなバイトをしていました。

伯方島は、みかん?塩?タオル?有名どころはなに?とよく聞かれるので、私も改めて島のことを文章に書き起こしてみることにしました。こうして書いていると、伯方島は、唯一無二の島であるということを誇りに思います。

愛媛船主と言われるほど、海運界でとても有名な伯方島

私が学校を卒業した後は、最初は地元で造船の事務員として2年半勤務しましたが、全国で最も大きい今治造船があります。「今治オーナー」と呼ばれる外航船主の集積は、北欧・香港・ピレウス(ギリシャ)と並んで世界の四大船主と言われるそうで、今治は全国屈指の造船業を加えた海事産業の集積都市は、世界的にも例がないと言われています。

一昔前の伯方島は、伯方町財政の90%を超える法人税が海運業からのものだった事実からわかるように、船主・船員、造船業などの関連を考えると、島のほとんどの家庭が、海運と関係した仕事で生活しています。

愛媛船主と言われるほど、海運界で伯方島はとても有名で、内航海運の伯方島の役割は大きい。私の亡くなった祖父は人生を終える直前まで、そして私の弟二人、また知人友人も航海士として働く人は身近にとても多く、内航船舶の船員をしています。

私が小さい頃は、身近な親族でも曽祖父も貨物船を所有していました。昭和51年には170業者あった昭和60年には131業者と減少していて、長びく海運不況に耐えることができず転廃業が多くなっていることを示しています。私の祖父が所有していた船も手放すことになり、家族経営をしていた海運業も廃業。船会社の同級生や後輩、とんでもないお嬢様が結構多かったし、格差の激しい面白い環境で幼少期を過ごしました。

航海士として働く祖父の姿

船乗りだった祖父は、小さいころは貨物船によく乗せてくれて、一緒に船で遊び、貨物船の中で味噌汁なんかをさらっと作ってもらい、昼ごはんを船の上でともに過ごすときもありました。そんなヘビースモーカーで格好いい働き者の祖父をポパイ、海賊と呼び、可愛がってもらったことは、私の思い出です。

最近は船員問題、特に船員は高齢化で、若者の船員の不足が大きな課題になると言われています。船員の仕事は、危険を伴う仕事で、また1度航海に出ると2~3ヶ月船で仕事をし、休暇は1ヶ月ほど。昔は旦那元気で留守がいい、船乗りと結婚するのがいいよ、なんて言われてきました。人によっては、海外を運航する船に乗る人は8ヶ月以上乗船して帰らない人もいて、船乗りの彼女や嫁は必然と忍耐強くなるし、男がいなくても自分一人で楽しむ術をよく知っています。(と私は思います)私自身も10代から20代始めは、島にいるときは付き合う人が船員で、将来は船員と結婚したいと思っていたくらい、憧れの職業でした。大阪や福岡に出たときに、船員というと、想像される職業は=漁師、あまり伝わらない職業でしたが、身近に船員が多い中私の生活、島の人の生活の景色の一つには、海で働く男性の姿があります。

海運業界と合わせて、伯方島にはもう一つ、唯一の製造会社で有名な伯方塩業株式会社(伯方の塩)があります。明治時代初期、塩田に必要な資材の砂を運ぶ「入れ替え船」、松葉など燃料を運ぶ船、塩を運送する船が発達しました。全国でもまれに見るものであり古人の努力を偲ぶもので、これはこの土地に住む人にとっての誇りの一つです。

日本で最後まで残った伝統的な塩田

伯方島が塩の製造がとても有名になったのもの必然で、塩田を作るには、伯方島の気候は穏やかな上、晴れの日がとても多く、遠浅の海が多い、まさに塩田に適した場所だったことにあります。全国で最後まで塩田方式が残ったのは、伯方島でした。瀬戸内海の沿岸は海水から塩を作る生産地で、昔はこの塩田のオーナーになるために、お金を貯めて独立する人もいたようだった。塩田で開業を夢見た若い人もいただろうと想像できます。

塩田に必要な資材を運ぶために船が使われ、製造した塩を乗せた船が関西、北陸、北海道までぐるりと回って、最終的に島まで戻ってきた船には、物々交換されたものが運び込まれてきました。

昔でいう、一隻の船の施工費は300万ほどだったそうだが、3000万の総工費をかけて船を造り、そこから続くのが日本一の保有隻数を持つと言われる日鮮海運。船が大きくなるタイミングには、増設や建設に関わる大きな動きがあり、安定供給の地元のみかん輸送などの場所では船の発展が遅れていることが顕著です。まさにこうして人が生きるのに必須である塩の製造と、船の発展は切っても切り離せない。第一次産業、第二次産業、第三次産業、この島では、製造と海運で大きく発展しました。

伯方の塩の由来は、単なる原料のことを指しているわけではない

伯方の塩の原料が海外のオーストラリア、メキシコの岩塩を使われていることは有名で、それは伯方の塩ではないじゃないか、と言われる声があったが、もう少しその先を知って欲しい。私が小学生のときに、週刊誌に伯方の塩の原料が海外原料である、と浅はかな情報が流され、揚げ足をとるような内容の記事が出たことを今でも覚えている。

昭和46年に塩業近代化臨時措置法が施行され、国の規制とともに、塩づくりは化学的な製法に転換、塩田が消滅する流れになった。

当時、松山の市民の有志が、伯方島の塩田を残したいと動き出し、存続運動が開始されました。各方面から5万人の署名を集め、国会に提出したがこれは叶わず、多くの労力が必要だった塩田は事実上全廃に。当時のネットがなかった時代に5万人の署名を集める国を動かす運動になったと言われる。足を動かし続けた人たちの思いや大変さは、現代社会ではもう想像がつかないほどと思います。

結局廃止されることになった塩田だが、それと同時に伯方塩業株式会社が設立されました。国が輸入しているメキシコやオーストラリアの天日塩田塩を原料とするなどのいくつかの制約のもと、国から塩の製造が委託されている。岩塩は海外のものを使いる、再製加工塩。これが伯方の塩です。

新しい形で存続することになったのが、この伯方の塩。設立時には、1口10万円の無担保、無保証、無期限の「塩による出世払い」で、出資を募り、数百万が集められた。昔は信用で商売がされていたというが、今でいうクラウドファンディングのようなもので、人の思いと伝統が継承されました。

伯方島を海運、製造の二つで少しばかりを紹介したけれど、伯方島やこのあたりの周辺の島は、これからリゾート地としての開発が進む話を最近よく耳にする。外から視察に来る人の姿も見る。他地区では有力船主に、ホテル経営をはじめとした多角経営が見られるが、伯方の船主にはそれがみられなかった。地縁・血縁に頼ることが多いため、近代的雇用市場として発達する余地が少なかったこの土地で、海運業が集まってこれからホテルなどができるらしい。

私は30代になり、これから世代が変わっていく中で生まれ育った土地も変化していく。これからの瀬戸内海に期待を持ちながら、変わっていく島をこの土地で見ていきたい。

ABOUT ME
馬場 早希
今治市伯方島出身。小さな島だが、海運業や塩業、製造業で栄えた土地で育ち、弓削商船高専で情報工学を卒業後、事務員として就職。23歳〜関西に拠点を移し、2020年株式会社BONHEUR、フェムテックの分野で福岡に拠点を移し、会社創業。ブランド立ち上げ、製品企画業務、デザイン、輸入業を行う。2023年会社譲渡後、今治市伯方島にUターン。現在新しい事業の立ち上げ準備中。
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