先日、帰宅すると玄関の鍵が開いていました。
家族は全員出払っているはずの時間帯です。
泥棒か。
こわごわ家の中を見て回り、誰もいないことにひとまず胸をなで下ろしました。
と同時に、最後に家を出た十代の娘の鍵閉め忘れが確定です。
憤怒に駆られLINEしました。
・・・・???・・・・!!!・・・あん?!💢
その後の事情聴取によると
- 「!」は共感を求める時に使う
- 「鍵が閉まってなくてびっくりだったよ~⤴」というニュアンスだと思った
- だから相槌を打つように返事をした
・・・・そんなわけあるかい!!!!
赤い「❗」は、ガラケー世代が使う傾向という話は耳にしたことがありますが、普通の「!」に共感(を求める)的な意味があるのでしょうか?
Z世代のご意見お待ちしています。
反省から反射へ
ここから話を敷衍していきます。
「空き巣に入られていないか」
「泥棒がまだ家の中にいたらどうしよう」
「家財は、家族は大丈夫か」
心配・不安なストーリーが次々と去来し、そんな状態を引き起こした娘に激怒する父――。
容易に想像できそうな筋・文脈を、「!」という記号1つですっ飛ばしてしまう娘。
こういうのを「物語消費からデータベース消費へ」と言うのかもしれません。
物語・文脈を共有した反省的=人間的コミュニケーション(諸々心配した父が怒っている → ヤバい → ごめんなさい / 他例:ガンダムの宇宙世紀という世界観 → アニメ放送や玩具を吟味=享受する)から、物語の構成要素である個々の記号への条件反射的=動物的消費(「!」 → 共感 → 相槌 / 他例:ネコ耳 → 萌え)へ。
「なるほど」という記号と演技
こうなると単純な世代間ギャップの話ではなくなってきます。
後期近代資本主義社会では、記号的=条件反射的=動物的なコミュニケーションが隆盛になっていると言われます。
かく言う私にも思い当たる節が。
例えば仕事でインタビューしている時、「なるほど、なるほど」と相槌を打つことがあります。
話の流れを滞らせず「私はあなたが言っていることを理解していますよ」と記号的、瞬間的に相手に伝達し、さらに話を前に進めるために。
60分や90分という限られた時間の中で、1000字や5000字といった定められた枠の中で、掲載される記事の仕上がりから逆算して、必要な量の「使える」コメントを確実に引き出すために。
そう、記号的コミュニケーションはタイパ(タイムパフォーマンス)に優れているんです。
が、しかしです。
映画「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介監督は、喫茶店で偶然、隣の席の保険勧誘員が記号的、マニュアルチックな「なるほど」を繰り返すのを耳にして
例えば僕が「なるほどなるほど。なるほどですね」という台詞を用いて、保険の勧誘シーンを脚本として書くならば、「その勧誘員が決して真摯には勧誘対象のことを考えていない」というニュアンスをシーンに込めることが前提となる。(中略)彼は自分が腹の奥底で何を考えていようが、そのことは伝わらない、見て取られるものではないと信じている(*引用者註:奥底がない → スーパーフラット → 動物化)。そのことが彼の「まずい演技」を生んでいる。
出典:濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること』,左右社,2015年,P.23
と判じます。
大根役者なまずい演技、をするインタビュアーの私を思い浮かべ、我が身を恥じました。
恥の更新
では「よい演技」とは何なんでしょうか。
キーワードは「恥」だそうです。
詳細はぜひ濱口監督の著書を読んでほしいのですが、乱暴に要約すると以下のようになります。
例えば小学校の時、歌のテストがあった。
人前で歌うのは恥ずかしい。
でも、小さい声で歌う友達を見て、恥ずかしそうに歌うのはもっと恥ずかしいと思い、思い切って大きな声で歌った。
そのときの視界の開けのような感覚を覚えています。恥がより大きな恥、より深い恥によって更新されて行くような感覚です。(中略)それが大人になるということかも知れない。
同上,P.45
自分と向き合い「私にとって本当に恥ずかしいことは何か?」と問うことを通して、私たちは「なりたい自分」へとポジティブに「恥」を更新して大人になる=成長します。
しかし、いつしか自分と向き合うのではなく社会を基準に「世の中的には○○しない方がいい」といったネガティブな更新へと陥ってしまいます。
自分を支え、導くものであったはずの「恥」が、自分を抑え込むものに変わっている。でも、逆に言えば、「社会」の基準に合わせてさえいれば、自分自身が問われることは少ない。
同上,P.50
「社会的な恥」の抑え込みによる「自分の恥」と向き合うことの放棄=「恥を捨てた演技」は
それがどれだけ熱のこもった演技であろうと、何かこの世のどこにもないこと、絵空事を見ているような気分になることがあります。
同上,P.46
問われる保険勧誘員、問われるインタビュアー、問われる・・・。
恥を書く
インタビューに加え、書くという伝達・表現行為(act)もよくする私ですが、そこには常にすでに演技(act)が含まれています。
記事や文章をこういうふうに読んでもらいたい、その「奥」にはしかじかのように伝えようとする書き手・表現者・行為者(actor)がいることを知ってほしい、と。
そこにポジティブな恥の更新があるのか、ネガティブな恥の更新があるのかによって、文章の良し悪しが分かれることになります。
恥を書いた(向き合った)よいactなら、読み手の条件反射的=動物的消費を押しとどめ、actorが組み込まれた大きな世界・物語を共有しつつ真意へと分け入る吟味=コミュニケーションを促すことができるかもしれません。
それは怒れる父親のLINEでも、こんなたてヨコラムでも!