Column

たてヨコラム

たてヨコメンバーによるフリーテーマのコラム

スタートアップビジネスライフスタイル事業

GIVE&TAKEで人は幸せになれるのか

株式会社ZENTECHの鈴木です。

今回2回目のたてヨコラムになります。

私事ですが、去年の10月に新しく会社を起ち上げました。
会社を起ち上げたからには、ビジョンとかミッションといった旗印を掲げたいなーと思い、その中で自分なりに考えてみたことをつらつらと書いてみたいと思います。

しばしお付き合いいただければ幸いです。

世の中GIVE&TAKEが当たり前?

言うまでもなく、今の日本は資本主義社会であり、そのベースには自由主義的な市場経済があります。
いわゆる経済合理性に基づいて個人や企業が自己や自社の利益を最大化することが目的となっているような社会です。

これ自体はbestではなくてbetterという意味でよく出来た仕組みだなーと思います。
おかげでコンビニとかで何も考えなくてもお金を払いさえすれば、ジュースやサンドイッチが買えますし。
問題は、こうした市場経済的な価値観がビジネスや商売の世界だけではなく、「日常」にも当たり前のように入り込んでしまっていることではないでしょうか?

「コスパ」や「タイパ」という言葉に表されるように、効率性や「割りに合うかどうか」が日常生活や人間関係にまで大きな影響を及ぼすようになってしまっています。

相手に何かをGIVEする前に、それがどんなTAKEがあるのか、無意識に考えてしまっていませんか?

人はなぜGIVEするのか

今から9年ほど前に出版された「GIVE&TAKE」という本があります。

本書によると、GIVE&TAKEの関係には、「受け取ることを優先するテイカー」「損得のバランスをとるマッチャー」「与えることを優先するギバー」という3種類が存在します。

調査によれば最も成功から遠いのがギバーであるが、実は最も成功しているのもギバーである、という事実があり、それがなぜなのかということをこの本では明らかにしようとしています。

そのロジック自体は大したことないし、成功の定義も経済的な成功がベースになっているので、個人的にはあんまりなんですが、この分かりやすい分類で「確かにテイカーみたいな人いるよなー、絶対友達になりたくないけど」とか「あの人はギバーだな」とか「自分はやっぱりマッチャーだな」などと具体的にイメージできるところがいいと思ってます。

でも、同時に素朴な疑問も湧きます。

ギバーの人ってそもそもどうしてGIVEしようと思うんだろう?
恵まれてるから?徳がある人だから?性格・育ちが良いから?

自分がよく思われたいというようなモチベーションでGIVEする人のことを、あまりギバーとは呼ばないでしょう。

むしろテイカーであり、悪く言えば「偽善者」と呼ばれるかもしれません。

では、ギバーと呼ばれる人たちは何か崇高な使命や美徳に従っているのでしょうか?
だとしたら、自分にはギバーなんて無理だ。大抵の人はそう感じるでしょう。

そんな時、僕にはあるシチュエーションが思い浮かびます。

おそらく、皆さんにも似たようなシチュエーションがあるのではないでしょうか。

自分の会社やクラブの先輩と一緒に飲みに行って、帰る時に飲み代を払おうとすると、先輩が「ここは俺が払うよ」と言って全額払ってくれる。

「すいません!ごちそうさまでした!」と言うと、先輩が一言。

「俺も先輩にそうやって奢ってもらってきたから」

なんかしょうもない例ですが(笑)、この時に「奢ってもらってラッキー!」という感情とは別の、コンビニで唐揚げを買う時には絶対に湧き上がることのない気持ちを感じませんか?

先輩が奢ってくれたのはその先輩の先輩に奢ってもらった恩があるからであり、その先輩の先輩が奢ってくれたのも、その先輩の先輩の先輩に奢ってもらった恩があるからで、その先輩の先輩の先輩も…。

過去へと繋がるそうした「奢ってもらったこと」の連鎖があり、そしてまた自分がその連鎖の一員となって未来の後輩たちに奢っていくことで、その連鎖を引き継いでいく。

大袈裟に言うと時間と空間を超えた繋がりを感じ、自分がその繋がりを担うバトンを受け取っているという実感です。

「恩送り」、英語で「Pay it forward」と呼ばれるこうした行動は、GIVEする人たちが、実はすでにGIVEされている(GIVEN)という感覚があって、それに報いるためにGIVEを行っているということを示唆しているのではないかと思います。

このようなGIVENから始まるGIVEは、それをしている当の本人からしてみれば、何か特別なことをしているというよりも「当たり前のことをしている」という感覚に近いのではないでしょうか。

GIVE&TAKEのGIVEとは

そもそも、GIVE&TAKEの何が問題なのか、と思う人もいるかもしれません。

世の中の大半がそのルールで回っている以上、それに従ってより多くTAKEできるようにふるまうことがもっとも合理的な選択となります。

事実、多くの人が、例の本でいうところの「テイカー」か「マッチャー」として行動しているのが現状でしょう。

GIVE&TAKEの世界が良くないということが言いたいわけではありません。

ただ、GIVE&TAKEのみで成立している世界では失われてしまっているものがある、ということに気づくことが大事なのではないかと思うのです。

GIVE&TAKEの場合、基本的には等価交換が前提となるので、そこでやりとりされているものは貨幣的な価値を前提にしていると考えられます。

まったく質の異なるものが等価であると認められるためには、何か基準となる指標が必要となるからです。

経済学によれば、貨幣の機能には大きく3つあります。第一に交換の媒体、第二に計算の単位、第三に価値の蓄蔵です。

このうちの第二の計算の単位という機能によって、世の中のモノやサービスはその多様な特徴を剥ぎ取られ、計算可能な一元的な価値でしか評価されないのです。

つまり、ここで失われているのはGIVEが本来持っている「多様性」です。

そして、もう一つはGIVE&TAKEの関係性におけるGIVEは、単にTAKEするための手段に過ぎないということです。何かしらの経済合理性にのっとっている限り、GIVEをするのはそれに見合ったメリットがあるからだ、ということになります。

ここで失われているのは、GIVEの「目的性」です。GIVEをすること自体が目的ではなく、他人さえも自分のメリットのために手段化してしまう。

最後の一つは、先の気前のいい先輩の話でも触れた「繋がり」、つまり、GIVEの生み出す「関係性」です。

GIVE&TAKEでは、一元的に価値の定まった(値段のついた)モノやサービスのやりとりなので、基本的に相手がコンビニの店員であろうと誰であろうと関係ありません。それはあくまでも匿名で対等な関係であり、それ以上でもそれ以下でもない。

また、GIVE&TAKEのやりとりは原則的に1対1で対応しており、その都度完了する形式なので、その関係性が広がることはないと考えられます。

「金の切れ目が縁の切れ目」ってやつですね。

GIVE&TAKEの原則で回っている今の市場経済は、このようなGIVEの「多様性」「目的性」「関係性」を排除した上で成り立っていると言えるのではないでしょうか。

豊かなGIVEとしての贈与

しかし、近年、こうしたGIVEが本来持っている豊かな力を取り戻すことで、このあまり人を幸せにしない社会ーというのは言い過ぎかもしれませんがーのシステムをアップデートできるのではないか、という議論が起きています。

キーワードとなるのは「贈与」です。

たとえば、近内悠太さんの「世界は贈与でできている」。

もともと贈与に関しては1925年のマルセル・モースの「贈与論」以来、人類学や哲学のテーマとして取り上げられてきましたが、近年は特に行き過ぎた資本主義に対するオルタナティブ(代替案)として、注目されるようになってきました。

市場経済の原理や価値観は社会の隅々まで浸透していきます。

それを近内さんはこう表現しています。

「資本主義というシステムに「資源の分配を市場に委ねる」という側面があるのだとすれば、資本主義はありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向を持ちます。」

その結果、

「「金で買えないものはない」のではありません。「金で買えないものはあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムを資本主義というのです。」

そんな全てが商品化される社会で、格差や分断、孤立などが生み出されていきます。

また近内さんは贈与は合理的であってはならない、と言います。

合理的であるということは、市場経済における交換の論理に回収されてしまうからです。だから、贈与は常に不合理なもの、市場経済からはみ出したもの(割りに合わないもの)として現れざるをえないのです。

しかし、贈与自体は市場経済自体を否定するものではなく、むしろ必要としているといいます。

市場経済というGIVE&TAKEの合理的な交換の論理があるからこそ、不合理としての贈与に気づくことができるのです。

そして、その贈与=GIVEに気づく、つまりGIVENの感覚を持つことが次の贈与=GIVEに繋がるのではないでしょうか。

まだまだGIVEの旅は続く

長々とお付き合いしていただきましたが、まだこのテーマは自分の中でも答えがでているわけではありません。

でも、ポスト資本主義社会をどう考えるか、行き過ぎた市場経済にどう対処するのか、ということに対してこの辺りにヒントが隠れているのではないかという感触はあります。

その一つの仮説として、人は自分がすでに与えられている(GIVEN)存在であるということに気づけば、おのずとGIVEする存在ーTAKEを前提としない豊かなGIVEを与える存在ーになりうるのではないか、というのがあります。そして、そのGIVEがまた新たなGIVENへと繋がり、豊かなGIVEの連鎖を生み出せば、少しはハッピーになる人たちが増え、世の中がよくなるのではないかと思っています。

あの気のいい先輩だけではなく、気づけばGIVENしてくれている存在というのは周りに案外いるものです。

自分がこれからやっていく事業を通じて、そうした連鎖を生み出せる世界を実現していきたいと思いますし、また皆さんともどこかでお会いした時にこうした議論ができれば、これに勝る喜びはありません!

最後に、なんとなくまとめた図も載せておきます。

ありがとうございました!

ABOUT ME
鈴木直之
大阪で12年半バーをやっていましたが、2019年に地域おこし協力隊の制度を使った起業型移住プログラムに応募し、愛媛県西条市に移住。 地域の課題や活性化に取り組む人たちを見える化し、気軽に支援できるソーシャルドネーションアプリ「ZEN messenger」を開発し、2022年10月に西条市で起業。 現在、事業を全国に拡大すべく、活動中。
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