柳田亮介、松山出身のもうすぐ50歳男子です。
この7月に愛媛県の最南端である愛南町に移住しまして、町の水産課の地域おこし協力隊員として活動を開始したところです。
さて、初のたてヨコラムということで、地域おこし協力隊について、あるいは愛南町の魅力について書こうと思ったのですが、今回は挨拶代わりということで、タイトルのテーマにて自分語りをお許しいただければと思います。
東京大好き
私は大阪で大学時代を過ごし、就職で上京しました。
それまでは「東京が一番デカい都市で、次が大阪!次は名古屋か博多か?」「東京では山手線の駅ごとに梅田や難波がある!」なんて思っていたのですが、東京での社会人生活がはじまり、もう少しだけ深い部分まで覗けるようになると・・・すぐ気づいてしまいました。
「日本は【東京】と【東京以外】で構成されている」
そう、東京(首都圏と言い換えてもいいかも)は、他のどの都市とも比較することができない、次元が違う都市なんだということを知りました。なんとなく関西って楽しそう!!というだけの理由でなんとなく大阪の大学を選んだことを後悔したことを覚えています。
さて、最初に就職した会社はさっさと辞めましたが、そのあとも関東圏(台東区〜常磐・千代田線沿線大好き)をフラフラとしていて、松山には一生戻らないつもりでした。
もちろん、今でも東京は大好きです。6年ぐらい前までは、時間があったら用事がなくても1週間ぐらい東京に行ってのんびりしたりしていました。最近はそうもいかないのですが。
東京でどこに行くとか何をするとかは特になくて、あちこち歩いちゃあカフェに入ってノマドワークしながら人間観察をしたり、道端に座って雑踏を眺めてたり、たまに友達に会ったり・・・東京のいろんな街が持つ一駅ごとに違った空気感があって、そういうのを感じるのが好きなのかな。
人生を変えた出会い
98年頃、私は千葉県柏市にあるうどん屋さんで看板息子としてwww働いてました。
そこで、その後の人生を変える遠因となった衝撃的な出会いがあったのです。
それは、
タラの芽の天ぷら
おまわりさんコイツです、私の人生を変えたのは。
関東地方には東北出身の人が多いこともあってか、春には山菜を愉しむ文化が割と強いと思います。
松山育ちでツクシとワラビぐらいしか食べたことがない25年前の私には、初めて食べるタラの芽の天ぷらの、あの癖になる独特の風味は、その後の人生を変えるほどの衝撃だったんです。
(ちなみに、近年は春になると養殖のタラが出回りますが、養殖モノはそもそもタラの風味が殆どしないことが多いので気をつけて!)
その後、00年にいったん松山に帰ってきた私、実はその時すぐに高松にうどんを習いに行くつもりだったのが、なんだかんだと父親の仕事に巻き込まれ、なし崩し的に松山に定着することとなります。
そして多忙な生活が続く中、ある春の日に、ふと思い出すのです。
「タラの芽の天ぷら食いてぇなぁ」
当然スーパーや八百屋には売ってない。当時はまだ養殖モノも売ってなかった。
自分で採ろうにもどこにどういう風に生えているか分からない。親戚のおばちゃんなどに聞いても分からないと。
仕方がないので「山菜百科」みたいな本を二冊ほど買って、休みのたびに野山に繰り出す生活が始まるのです。2001年の春あたりからでしょうか、車には常に長靴や高枝切り鋏やらがつんであって、休みの日には採れる場所を探すという生活。タラの他にも比較的見つけやすいものも覚えました。
雪解け時期のフキノトウに始まり、ツクシやワラビ、カンゾウ、ユキノシタ、シドケ(モミジガサ)、そしてタラの芽やウド、山菜シーズンの最後はツワブキで締めくくる、といった具合です。また、時期が進むとともに、東温市・伊予市〜砥部〜広田〜久万町〜面河、といった具合に、訪れる場所の標高を上げていき、なるべく長い期間楽しんでいました。
移住を意識するきっかけとなる出会い
当時30歳前後独身。毎年春になると何回も面河まで足を運ぶうちに、面河ダム湖畔のあるお店?のようなところのおっちゃんおばちゃんと仲良くなり、いろんな山菜の採れる場所の情報を教えてもらったりするようになりました。そしてある時、おっちゃんがダム湖の対岸にある古い民家を指差して、
「あそこに家があるやろ、あれもうすぐ売りに出るぞ。おっちゃんの見立てでは300万。今でも人が住んどるけん状態はいいし、家の前まで舟で付けられるぞ。買いたいようやったら聞いてみるけん言うてな」
結局この家は不動産屋が仲介に入ったことで価格がググッと上がったらしく、手の届かぬ物件に。おっちゃんは「スーツ(の不動産屋)は山の値段を知らん」とぼやいていました。
まあしかし、当時は松山市内で仕事していましたし、独身だったとはいえ面河に住むことが現実的な選択かと問われると、あの時点では無理だったと思います。
ただ、この一件が「移住」を意識した初めての機会となったことは確かです。
それからは、松山で仕事しながら山暮らしが出来る現実的な場所ということで、五明あたりの物件をあさり始めました。しかし、松山市内への通勤圏内ということもあり、価格帯的に手が出ず。
また、久万町は当時から新規就農支援に力を入れていて、給料をもらいながら農業の勉強をさせてもらい、その後は独立するための様々な支援を受けられるような制度があり、そんな情報を興味を持って眺めてたりしました。久万高原町の新規就農者支援事業
そうこうするうちに結婚して子供が生まれ、私はわたしで東京に二年ほどフラッと行ってみたりして、バタバタしてるわ金はないわで、移住の実現は当分先ね、という状況が続きました。
この時期、将来の移住先の第一候補は久万高原町になっていました。遊びもあり、自然もあり、道路もいいので松山へのアクセスも良い。文句のつけようの無い土地なのです。
また、この頃に友人である馬飼いの愛ちゃん@天馬になったウィンダム&久万生まれのミニチュア マンボちゃんがお馬さんのために久万に移住するなんてこともあり、いいな〜〜なんて指を咥えて見てました。
将来的な移住を可能にしたジョブチェンジ、きっかけはトラブルw
2013年初頭ごろ、東京での放浪生活を終了し松山に引き上げてきたのですが、当時の私は、知人経由で大きなウェブ案件を獲得して(実質の作業は全て外注)、その利益が手元にあるうちに仕事を探そうとしていました。
ところがこの案件がトラブって、途中からコーディングを自分がしなくてはならなくなりました。この時、初めて本格的にPHPでウェブアプリケーションを作るハメになったのですが、1ヶ月ほど殆ど布団で寝た記憶がありません。なんとか納品にこぎつけたのですが、結果的にそれでPHPやデータベースをマスターし、「もしかしたらコーダーでやっていけるんちゃうん??」という考えに至ったのです。
フリーランスのコーダーという、ネット環境さえあればどこでも出来るというワークスタイルは私の生態にとにかくマッチしていたし、結果として、これがスムーズな移住を可能にする最大の要因となりました。
う・ど・ん からの 腰破壊
2015年頃からコーダーとしてはそこそこ仕事の質も量も安定してきて、コーダー業が楽しくて仕方ない、そんな時期でした。実際、クライアントさんからはほぼ100%リピート発注をいただける状態で、2016年初頭ごろには受注できる案件よりもたくさんの案件を断らざるを得ない状況になり、思い切って法人化して人を雇おうか、なんて考えていました。
そんな矢先の2016年4月、私が愛してやまない「踊るうどん永木」という銘店の二代目大将の訃報が・・・
この、うどん屋についてはこれだけでコラム数本書けるぐらい、長くて深いストーリーがあるのでそれはまたの機会に。
ともかく、2016年5月よりうどん屋の経営者となったことで、移住話はいったん「将来の話」ということに。
その間にも、広田〜久万〜面河とか、内子〜南予とか、カルスト〜梼原とか、妻と「この辺もいいねぇ」「結構空き家あるね」「店舗付きの家とかあるかな」なんて言いながら近場の山間地へのドライブがお決まりの休日の過ごし方でした。
この時期から内子町の石畳地区を気に入ってよく訪れるようになり、町並みもいいし、Karariもお気に入りとあって、妻は内子町が大のお気に入りとなり、移住先候補には内子町が参戦してきました。妻は内子町内の店舗付き住宅を探していたようですww
そんな中、2019年1月末。テレビ取材を翌日に控えた私は・・・ギックリ腰になりましたww
病院に行ったら、ギックリ腰というだけじゃなく、脊柱菅狭窄症を発症しているとのこと。しかも、先天的に脊柱管が狭いことも判明。
まあ、この治療の話もコラム1本書けるぐらいなので・・・まともに動けるようになるまでは2ヶ月ぐらいかかったかな、というぐらいで済ませます。
それから1年ほど、週4日、一日2時間半ぐらいの営業、という超時短営業で1年ほど頑張ってはみたのですが、結局腰が全快することはなく、2020年3月、コロナが猛威をふるい始める少し前、うどん屋は閉店へ。
釣りとの出会い
というわけで、晴れてプーになり、再度コーダーとして復活に向かうわけですが、実はこの時期にもう一つの転機が訪れていました。
私が暇になったということで、妻がかねてから行きたいといっていた「釣り」に出かけることになりました。
実は私、三津が地元です。実家の前は海で、やろうと思えば二階の窓から投げ釣りが出来ますwwやらんけどw そんな環境なのに全く釣りをせずに少年時代を過ごしたんです。そんなに興味なかったみたいで。
そんな私でしたが、妻と釣具屋に行って初心者用サビキセットを買って・・・その時点では、自分はホント興味なくて、妻が釣りをするのにしぶしぶ付き合うというスタンスでしたが、二人であーだこーだやって何とか釣りは成立し、アジを二尾持って帰りました。夫としては、妻が楽しんでくれればそれで良し、ですね。
で、結局は・・・
釣りにどっぷりハマったのは私の方でしたwww
さあ、そうなってくると移住先の選び方が変わってきます。
「海の近くがいいね!!」
久万高原町、アウト!
内子町、アウト!
そして急浮上したのが愛南町。愛南町には良いイメージしかなかったし、そのイメージを具現化したようなナイスな友人もいたので、愛南町が最有力候補地となりました。
いろいろと揃ったっぽいところに爆弾が炸裂
そうこうしているうちに、うどん屋廃業後に再開したコーダー業の方も軌道に乗ってきて、いよいよ移住も現実的に可能となってきて、妻とも具体的な話をするようになりました。
そんな折にこのたてヨコラムに投下された記事、目的の一軒家にたどりついた・・・、これ読んでもう興奮してしまって、読了後すぐにメッセージ送って、5日後には訪問。
このタイミングでこのコラム、ありえませんな。田村氏に触発され、ついに移住計画が具体的に動き出しました。
偶然と必然が折り重なって人生を構成しているんだなぁ
私の自分語りに長々とお付き合いくださった皆さん、ありがとうございました。
どうでしたか?
東京大好きな私が東京で山菜に出会い、松山に帰って来たらお店で食えないし売ってないもんだから自分で採りに行くようになり、その中で出会ったおっちゃんがきっかけで山間部に住むというイメージをするようになり、移住というキーワードが自分の中にハッキリと生まれ、仕事上のトラブルがきっかけでフリーランスのコーダーとなりネット環境さえあればどこでも仕事できるようになり、その他にもうどん屋でアナログ方面でも手に職を付け、妻の希望でしぶしぶ付き合った釣りにハマって海を目指し、んでもって、気がついたら愛南町民になっていました。
風が吹けば桶屋が儲かるじゃないですけど、ぜ〜〜んぜん関係ない出来事や自分のしてきた選択の、かなり多くのことがぜ〜んぶつながって、私は今愛南町にいて、地域おこし協力隊員なんてのを拝命しているわけです(協力隊についてはまたいつか詳しく書きますね)。
そう考えると、自分の人生といっても、自分で設計しているようでかなりの部分は偶然の要素に左右されているんだと思います。
自分で選んでるようで、実は偶然の要素に左右されている
例えば、24年ほど前のあの時、タラの芽の天ぷらに出会わなかったら?出会っていても、タラの芽の味が好みじゃなかったら?
たったこれだけ。たったこれだけのことで、私の人生は今とは全く違う方向に向かっていたのです。
ここまでに書いてきた出来事の他にも、星の数ほどのいろんなことを経験してきて、また、さらにそれを上回る様々なことを「経験しなかった」、その結果が今なのです。
経験してきたことのうちの、ほんの一つのことを経験していなくて、経験してこなかったことのうちのほんの一つのことを経験していたとしたら、もうそれだけで今の自分がどういう状況で誰とどんなことをしているのか、想像も出来ないわけです。
ですから、この先の人生だって自分の思うように進むはずはなくて、めまぐるしい日々の中で出会う人や、起きる出来事によってどんな方向に進むかわからない、そんなワクワクが絶えません。
ちょっと寄り道?
閑話休題。
日々を過ごすうえで私が大切にしていることは、どんな出来事にもできるだけ色を付けないでいよう、ということ。
楽しいこと、嬉しいこと、嫌なこと、しんどいこと、気持ちよかったり痛かったり、いろんなことが起こります。そうしたことに対して湧く感情は大切にしつつ、出来事そのものに関しては単なる「事実」としてだけ捉え、感情による色付けはしないように注意しようと。
具体的に言うと、「釣りに行ったけど釣れなかった」というのを、「残念」とか「悔しい」という感情を抱くは当然ではあるけど、「釣れなかった」というのは単なる事象であって、必ずしも感情と対になるものではない、ということ。
事実は事実として感情とは切り離した理解をすることで、どんなことでも「事実としては受け入れる」ことが容易になるし、マイナスの感情が起こるような事実でもいったんその感情を切り離して理解をすることで、そこにプラスの感情を乗せるというコントロールも効きやすいのです。
ん?なんかこれは、同じ亮介である田淵氏にバトンを渡す案件だな、うん、そうしようwwあとは任せますwww
おわりに
思考のトレーニングは楽しいので好きですが、実生活ではあまり物事を深く考えないようにしてます。
人生訓は「それ、失敗したら死ぬんか?」であり、死なんのやったら何でもやってみたらいいという主義です。
当事者が思う「失敗」って、客観的に見るというほど失敗じゃないことが多いのです。
そして、踊るうどん永木に受け継がれてきた思考と言っちゃっていいと思うのですが、「迷ったら楽しい方へ行け」
人生って、全てを自分の選択通りに進むことなんて出来ないんだから、「いつ何が起こっても楽しむ」という、それだけは鋼の意志で決意して毎日を過ごしましょう。では、またいつかどこかで会いましょう!