いただき物から感じたこと
お弁当のトマト。一口で食べるには大き過ぎるので、半分ずつかじって食べようとしたら、ちょっとかじっただけなのに果汁が思いっきり飛び出てきました。思わずとっさに目をつぶるほどに。皆さんも新鮮で元気なトマトを食べる際は、ご注意ください。
実はこのトマト、親戚の伯母からもらったものなんです。伯母も年をとり手入れをすることができず、草がぼうぼうの畑で育った野生児なトマトです。採れたての野菜は皮がプリップリで、みずみずしくておいしいですね。
私の家はもともと兼業農家でたくさんの野菜を作っていましたが、父母が年をとり今は我が家の畑も荒れ放題です。前は余った野菜を近所の人や親戚の人に配っていました。今はいただく側です。できるときは一度にたくさんできるものですね。
作っていないことを知って、ご近所の方が自分の畑で採れた野菜を採れた順に持って来て下さいます。作っている時は、野菜をほとんど買わなかったのですが、買うと高くていただけるのは本当に助かります。種も取って乾かし保存している人もいて。また次も作れ、次の世代にも受け継ぐことができる。愛媛は水不足が心配なところではあるけれど、比較的災害が少なく、海も山もあって畑もできて食べ物をシェアできる環境がありますね。
育てるよろこび。収穫のよろこび。わかちあうよろこび。与えるよろこび。
愛媛に生まれて幸せだな、て思うのでした。
ある打ち合わせで
ある、プロジェクトの打ち合わせをした時の事。お話を聞いていてなんだか違和感を感じました。話を伺っていると産業発展と人材育成が目的でなるほどなと思うのですが何かが足りないな、と。私にははじめ、今の社会を継続するため、経済の豊かさと産業存続のためのプロジェクトで、人への重点が感じられなかったからでした。
現代社会では、多くの人が自分の人生を削って生み出す利益は、一部の人がたくさんもらっていて、人材育成もその仕組みを続ける人たちを育てるためだとしたら・・・。
今ある町の雰囲気も、景色も、産業も人の生き方や人生が折り重なってできたもの。経済の豊かさも会社の存続も幸福を感じることのできる人ありきだな、と思うのです。経済や会社が主役ではなくて、そこに住む人、働く人、生きる人が主役となれるような社会が目的であってほしいなと思いました。
津波のあとの世界
東日本大震災のボランティアで南三陸と気仙沼を訪れた時、あるはずのものがない、と気づく経験をしました。あるはずのものとは、町の色、景色、におい、音、人の気配、生きているものがいる感覚です。それらが訪れた場所にはないことに気づいたのです。私が行った津波のあとの町は、廃墟というか瓦礫撤去のあとで、津波で草も生えていなくて、ただただ広い平野が広がる場所でした。所々にコンクリートの建物や基礎の部分は残っていましたが、鳥もいない、蟻一匹の存在も感じられない世界でした。
私たちは普段意識しないと気づかないかもしれないけれど、そこにしかないものに囲まれ、それらを感じていきているんだということです。町はその町にある自然と今まで生きて来た人たちの証で、これから生きていく人に受け継がれていくものなんですよね。
大切だと思うこと
最近大切だな、と思うことは「Humanity(人間の在り方・人間性・人間らしさ)」です。
今までは、ものやお金の豊かさそのものを目指す社会でした。大量に生産し大量に消費して。でもその社会はどこかで私たちを苦しめたり自由を奪うものになってしまっています。あたりまえになっている日常は本当に自分が望んでいる社会や自分なのだろうか。もしかしたらそれは自分ではなく他人から「そうすべきことが正しい」と教えられたものなのかもしれません。きっと大切なものがあるのではと思うのです。