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たてヨコラム

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歴史小説

人生最後の一週間には「坂の上の雲」を読みたい

唐突なタイトルでしたが、今回は私がいかに「坂の上の雲」が好きかということを書いてみたいと思いました。今回もだらだら読みづらいかもですが、どうかお付き合いください。

2000年、27歳の時に私は転職で松山に移り住みました。それまで一度だけ通過したことはあった程度の、ほぼ初めての松山。この松山という土地を知るために真っ先に手に取ったのが、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」でした。「坂の上の雲」は単行本にして全8巻という大作で、登場人物も多く読むのがとても大変な小説です。しかし、愛媛の人、愛媛が好きな人にはどうしても読んでほしい、知ってほしい物語です。先日のBLAST SETOUCHIでユーグレナの永田CEOが言われていましたね。「日本の歴史はいつもこの中四国がつくってきた」と。その時私は胸を張って思いました。「愛媛には秋山兄弟がいる!」と。私はこの「坂の上の雲」を今まで折に触れ4~5回くらいは読んだかと思います。そして、人生の最後にもこれを読めたら最高だろうなと思っています。

BLAST SETOUCHI 2022 : ユーグレナ 永田CEO(右)

「坂の上の雲」は端的に言えば1904~1905年に起きた日露戦争に関する物語です。これだけ書くと、ややもすれば戦争を賛美した内容と捉えられて敬遠されたり、批判されたりするのですが、これは完全な誤解です。では何が言いたいのか?これは本当に読んでいただかないとわからない、としか言えなのですが、あえて拙い表現で言語化するとしたら、これは「人間の教科書」だということです。

本当にたくさんの多彩な人物が出てきて、そこには無数の人間模様が描かれています。しかもこれらの人たちは昔の遠い存在ではなく、普段接する周りのいろいろな人に重ね合わせることが出来て、とても学びが多いのです。そういう意味ではすべての歴史作品がそう言えるかもしれませんが、日露戦争は歴史がまだ浅く当時の資料も多いことから、とても身近に感じられるという特徴もあります。なお私は初めてこれを読んだときは、ウェブサイトで全登場人物の顔写真を確認しながら読み進めました。

人生の最後に読む本は?

この小説を読んで以来、素晴らしい人に出会った時には東郷平八郎や大山巌と重ね合わせて尊敬の念をいただいたり、逆に腹が立つことがあっても、あの人は伊地知幸助に似てる、ロジェストヴェンスキータイプだな、と考えることで冷静になったりできます。そして何より、こういう場面で秋山真之ならどう振る舞うか、山本権兵衛ならどう決断するか、などと自分自身の行動指針になっています。このコラムでは、「坂の上の雲」の中で描かれている私の好きな場面を抜き出しつつ、そこから得られた学びを共有していきたいと思います。

東郷平八郎の茶菓子

東郷平八郎といえば、日露戦争のハイライトであるバルチック艦隊との日本海海戦で勝利した日本連合艦隊の司令長官です。神社やビールにも名前を残したヒーロー中のヒーロー。彼は日本人のリーダとして理想的な人物で、そのすごさはやはりその人間力にあると言っていいと思います。中でも私が好きなのが、この茶菓子の話。

ロシア海軍は日本海軍の二倍の戦力を持っていました。今の中国の東北部にあたる旅順に構える旅順艦隊と、ヨーロッパのバルト海に構えるバルチック艦隊。バルチック艦隊は半年以上かけて地球を一周して日本海に至り、旅順艦隊とともに日本連合艦隊を挟み撃ちにするという作戦です。日本連合艦隊はバルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を叩いておく必要がありました。

バルチック艦隊

艦隊といってもたくさんの種類の船がありますが、最も戦闘能力が高い船を「戦艦」と呼び、この戦艦の数がその艦隊の強さを決めます。日本連合艦隊は戦艦を6隻持っていました。これらの戦艦を建造・購入するために、日本は過去10年の国家予算のほとんどを費やしました。絹とお茶くらいしか輸出品を持たなかった日本国民が、まさに飲まず食わずでつくったなけなしの戦艦です。

ロシアの旅順艦隊は湾口がわずか274メートルの旅順湾という天然の要塞に引きこもっています。日本連合艦隊はこれをなかなか攻めることが出来ず、その湾の外側でいらいいらしながら包囲していました。そんな中ある晩、八島、初瀬という二隻の戦艦が相手の機雷(海の地雷)に触れて沈没してしまいます。たった1セットしかない艦隊戦力の三分の一を戦わずして一晩にして失ったのです。

東郷平八郎

艦隊にいた海軍の全員がショックで言葉を失い顔面蒼白となり、なかには悲嘆にくれ号泣するものもありました。豪胆で知られる山本権兵衛海軍大臣でさえ食事がのどを通らなかったほどの衝撃でした。沈没した戦艦の二人の艦長は切腹も辞さない覚悟で涙ながらに東郷長官に報告に行きます。その時の東郷長官の姿が秋山真之は生涯忘れられなかったそうです。

東郷平八郎は報告を聞くと、全く表情を変えずに「そうか、みなご苦労だった。まあ、これでも食え。」といって、テーブルにあった茶菓子を二人に差し出したということです。その後いつもと変わらない様子で、デッキを散歩して回ったそうです。この様子を見た幕僚全員は東郷長官の器の大きさに感激したと同時に、落ち着きを取り戻し、再び士気をあげることができたということです。

リーダたるものこうした予測不能な事態に陥った際にこそ真価が問われると思います。私自身もこれまで色々なトラブルやアクシデントに見舞われたこともありますが、なかなか東郷長官のような落ち着いた態度は取れないものです。とても遠い存在ですが、こうした態度は少しでも見習いたいなと思います。

秋山好古の給料袋

次に紹介するのは、主人公の一人秋山好古です。好古といえば日本陸軍では「騎兵の父」(騎兵:馬に乗って戦う兵隊)とよばれる人物で、日露戦争においては騎兵隊の隊長として数々の会戦で大活躍する偉人です。

日本海海戦の作戦を立てたと言われる弟の真之に比べて地味な存在と思われがちですが、坂の上の雲を読めばいかにこの好古が活躍したかがわかります。私は実は真之以上に好古が日露戦の勝利に貢献したのではないかと思えるほどです。

秋山好古

今でいう中国東北部、当時の呼称で言えば満州平野で展開された陸軍の戦いなのですが、数ある会戦の中でも日本軍が最も危機的状況にあったのが「黒溝台の戦い」でした。「坂の上の雲」の5巻で展開される厳寒の中での戦いで、読み進めるのもなかなか大変なのですが、ここで好古は大活躍を見せます。

騎兵は普通馬に乗って相手陣地に深く攻め込むという役割なのですが、守備が手薄な日本軍を手助けするため馬を穴に入れて守りながら、騎兵隊に歩兵の役割をさせて陣地を守ります。そして援軍を得ると同時にロシア軍の後方深くに突然現れて敵を攪乱。その後ロシア軍は退却してしまいます。ロシア軍圧倒的有利な状況での退却の理由はいまだに不明とのことですが、秋山隊の後方攪乱は大きな要因だったと言われています。

この好古、いわゆる清貧を貫いた人で、酒以外に関して自分自身に対してとても無頓着でした。真之が学生時代に好古と二人で暮らしていたことがあったのですが、食事と言えばおかずは沢庵のみ。しかも一つの茶碗を二人で使っていたそうです。もっとも好古はそれで酒を飲むわけですが。また、戦から一時帰国すると数か月分の給料袋や記念品が山積みになるわけですが、それを見た好古は「これで飲みに行ってこい」といって全部部下に与えていたそうです。

もう一つ好きなエピソードとして、対戦中に自分の部屋に投降したロシア兵が入って来た際、敵に攻め込まれたと思い込んだ好古は、何事もなかったのように自分のこめかみにピストルを持ってきたらしいです。これは東郷長官同様肝の据わった振る舞いだと思います。その後これが投降兵だとわかると「なんだ、マツヤマか。」とつぶやきます。日露役の際の捕虜収容所は松山にあったんですね。しかも松山の人々がロシアの捕虜にとても丁寧に接していたとして、世界的にも高い評価を得ています。

梅津寺 秋山好古像

好古のこうした豪放磊落な人間性は本当に気持ちがよく大好きで、憧れます。こうやって誰からも好かれる人だったため晩年は松山北高校の初代校長も務めたそうですね。ロープウェイ街のそば、歩行町にある秋山家の生家は今では柔道場になっています。そのほかにも道後には彼のお墓が、梅津寺にはかっこいい銅像もあります。暖かくなってきましたし、たてヨコの皆さんもぜひ秋山兄弟巡りをされてはいかがでしょうか?

「腹が痛い」と言った児玉源太郎

本当は10人くらい紹介したかったのですが、「坂の上の雲愛」が強すぎて長くなりすぎたので泣く泣く最後の一人にさせていただきます。厳選した結果、児玉源太郎陸軍大将を選びました。

歴史の教科書には出てきませんが、この人は「坂の上の雲」の主人公と言ってもいいほど大きな存在感です。日露戦争において陸軍にとっても海軍にとっても結果的に最重要拠点となった二百三高地。この高さわずか203メートルの山をめぐる戦いで影の立役者になったのが、陸軍参謀長だった児玉源太郎です。

乃木希典(左)と児玉源太郎(右)

東郷長官のところでも話しましたが、海軍にとって旅順という場所は大変重要でした。旅順港にはロシアの艦隊がワンセット停泊しており、その旅順湾は周囲を山で囲まれるという、天然の要塞だったのです。その山々はロシア軍により強固に守られていて、陸からも簡単には攻め込めません。その攻撃を任されたのは陸軍第三軍で、責任者である司令長官は乃木希典大将、ナンバー2の参謀長が伊地知幸介。歴史上の真偽はともかく、小説の中ではこの二人の作戦、指揮、遂行の能力不足と描かれており、旅順がなかなか攻略できません。

その旅順の山々の中でも守備ががら空きだったのが二百三高地で、秋山真之をはじめとした海軍がそこを狙うようにお願いするにもかかわらず、陸海軍の軋轢からか第三軍はそれを聞き容れませんでした。そうするうちにその重要性に気づいたロシアは二百三高地をコンクリートで要塞化し、日本がようやく総攻撃に出たときにはもう手遅れでした。その結果、この旅順攻撃では15,000人以上の戦死者を出し、山肌が血の色に染まるほどの凄惨な戦場となってしまいます。

4ヶ月以上経っても何の進展もなく、バルチック艦隊が日に日に迫りくる12月。しびれを切らした児玉源太郎が大山巌参謀総長の承認を得て第三軍の指揮権を手に入れ、満州北方の前線から旅順に移動します。児玉はまず長州の同郷だった乃木を訪ね二人きりで話し合い、その信頼関係の中で乃木のメンツを傷つけることなく指揮権を引き継ぎました。児玉はすぐに第三軍首脳陣を集めると「24時間以内に主力の28サンチ砲弾をすべて二百三高地に集中し、その砲弾を打ちながら兵隊を一挙に送り込め」という作戦を指示します。首脳陣は顔色を変え「そんな無謀な作戦は出来ません。陛下の赤子(せきし)を陛下の弾で撃てません。」と答えました。その瞬間児玉は色をなして激怒し「ばかもん!君たちの無策でこれまでどれだけの命を無駄にしているんだ!そこをうまくやれ!」と涙ながらにしかりつけます。この策が功を奏し、児玉が指揮権を取ってわずか4日で二百三高地を奪取。そこからさらに3日後には旅順艦隊をすべて撃沈させます。

二百三高地からみた旅順港

二百三高地を奪った後、勝利に酔う第三軍の司令部ではその立役者である児玉源太郎に、二百三高地に登って旅順港を一望し、兵士の士気をあげてほしいと要請しました。しかしここで児玉は粋なセリフを残します。「腹が痛い・・・」そう言って彼は二百三高地に登ることなく、乃木大将にその役目を代わってもらいます。そうして彼は一人静かに北方の満州軍部へ戻りました。

物事の大局をとらえ今なすべきことを決断し、それに対して熱意をもって実行する。その際には周囲の人の気持ちやメンツを大事にして、しっかり気配りや手順を踏むことが出来る。そしてなんと言っても、自分がやった功績は惜しげもなく人に譲り、あたかも何もなかったかのように颯爽と振る舞う。かっこよすぎます。こんな人に私もなりたいです。

※ちなみに、乃木希典も大好きです。小説では若干批判的に描かれていますが、本当に悲劇のヒーローで私は彼のことを考えただけで涙が止まりません。

結びに

断っておきますが「坂の上の雲」は小説です。上に書いたようなエピソードの真偽については諸説あります。そういう意味では歴史上の彼らではなくて小説の彼がら好き、と言えるかもしれません。しかしそうだとしても、この小説に描かれるこうした人間の機微から学ぶべきものはたくさんあると思います。

司馬遼太郎は遺言で「坂の上の雲だけは映像化してくれるな」と言われたそうです。戦争賛美と誤解されたり、乃木希典信奉者に逆恨みされたりということを恐れたのではないかと思います。ところがNHKの大河ドラマスペシャル企画として2009年に映像化されました。司馬財団の経営状況悪化とか、松山市の観光施策などいろいろな事情が絡んでいるとは思いますし、司馬さん自身も「事実が歴史になるのには100年要する」と言われていたので、それに従った部分もあったかもしれません。そして、ドラマ自体も「坂の上の雲まちづくり」も大変すばらしいもので、これはこれでよかったと思います。

坂の上に雲はあるか?

しかし一方ドラマでは「坂の上の雲」の本当の良さとか真意とかが30%くらいしか伝わらないと私は思っています。あまり言いすぎると「サカハラ」になってしまいますのでこの辺にしますが、特に若いたてヨコメンバーの方々にはまずは1巻だけでも手に取っていただくことをお勧めしたいです。(坂の上の雲が大好きな)サイボウズ三浦さんのような人間力を手に入れたい方、さあ今すぐ明屋書店へGO!

TATE NAGAFUCHI

ABOUT ME
テイト 永渕
1972年生。愛媛県に本社がある三浦工業株式会社で企画統括部に所属。機械エンジニアとして入社し、その後アメリカ駐在を9年間経験。 2019年6月に稲見さんとともにNPUG愛媛交流会をはじめ、それが今のたてヨコ愛媛の原型となる。愛媛で最も面白い人たちが集まる社会人コミュニティを作りたい。ニックネームはテイト(Tate)。
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