ゲームではなく、「自分とは何ぞや」という思考の沼にはまっている石川です。そのきっかけにもなっている進行中のステッカープロジェクトについて少し書いてみようかと思います。
私の活動の原点を語るには、ここは外せない。
別府市には西日本各地から脊髄損傷者が入所する国立のリハビリ施設があります。
そこでさまざまな障害状態の十~六十代の約三十人が、社会復帰を目標に入所している中でリハビリに励んだ私。着替えや入浴といった日常動作から車イス操作や車の運転にいたるまで、それぞれの状態にあった動作を習得します。
大分には他にもリハビリ施設や、太陽の家という大手企業の特例子会社の集まりもあって、さまざまな障害の人たちが普通に混ざりあって生活しています。電車で車イスが五、六台乗りあわせる、なんてこともしょっちゅうでしたから、街中の人も見慣れるわけです。
そんな別府で一年半を過ごし、愛媛に帰ってくると、バスに乗って出ただけですごい子だ!なんて言われる。病院に一人で行ったことをえらいと言われた時には、呆然としてしまった。ワタシ35歳スギテマス。
この時はまだ見慣れないからだとは分からず、ただただ違和感の中にいました。
さらに介護系になるとおかしな常識が存在していて、仕事とプライベートがごちゃ混ぜ。まるで中高生かのような扱いに加えて、やってあげるということに依存する人までいる。承認欲求が満たされるそうです。車椅子の女性が少ないからか、介助してもらっただけで怖い目にも合うしまつ。
なんだ、この世界は
あまりに理解できないことには、人間恐怖心がめばえるようです。人としては良い人ばかりでしたから、単に私とは合わなかっただけなのでしょうけど。
別府に戻るのをやめて愛媛にいると決めてから、何か変えていけるところはないのかと考え続けています。
ソフト面でのバリアフリー活動をしてはみたが、変える必要はないんじゃないのか、自分のことに専念しよう。そう思い始めた矢先、
「市駅前で手伝ってもらえず困っている車椅子の子がいたよ」
「知り合いの娘さんが突然車椅子になって、引きこもってしまって…」
何度目かの体験に正直こまりました。
活動して怖い目もイヤな思いももうしたくない。でも泣いていた人の顔が忘れられない。まだやるしかないのか。
ある程度人を集められるとはわかっていたものの、福祉関連以外をいかに巻き込んでいくのかが課題で、何かヒントを得たくてたてヨコに参加しました。しかしすごい方ばかり。
本当にここで人を巻き込んでいけるのだろうかという不安はずっと付きまといます。なんせ私プロジェクトなんてものには無縁の人生だったし、特別なスキルもない、リーダー気質でもない。
分不相応なことをやるな。前に投げつけられたそんな言葉が頭をよぎる。
ただやり始めたからには後には引けない。できることをやろう。そう自分を奮い立たせて最低ラインだけは決めました。いただいたステッカー百枚を配りきること。
動いてもらっているからこそ、自分にできることは最大限やりたくて、人がこわい、人前は苦手などと言っている場合ではないと今自分と向き合っています。
私が動き続けていられるのは、人のやさしさに救われたおかげです。
情報がないがゆえに、環境があってないがゆえに、傷ついている人を何人も見ました。顔を上げるきっかけには、癒しも必要なのかもしれない。道はあると気付いてほしい。
いろんな人への恩返しもこめて優しさや思いやりを誰かに渡していけたら
ただただ必死ですが、関わってくれる方々、共感してもらえることに感謝を忘れず勇気をもらい、一人でもいいからココロにやさしさが届いてくれたらと願っています。