Column

たてヨコラム

たてヨコメンバーによるフリーテーマのコラム

世界に出たかった農家の娘が、世界を回って愛媛に帰るまで

「今、一番したいことは?」と聞かれたら、私は今でも「アフリカに住みたい」と答える。

それでも私は、愛媛にいる。

世界に出たかった私が、なぜ世界を回って愛媛へ帰ってきたのか。少し長くなるけれど、今回は私の自己紹介をコラムに書きます。

五右衛門風呂と、外にあるトイレ

私は、温泉郡川内町、現在の東温市に生まれた。

兄と妹の3人きょうだい。兄がいるのに、なぜか「長女」としての責任はしっかり背負わされる、少し不思議な立ち位置である。

小学生の頃まで暮らしていたのは、築100年を超える父の実家だった。台所と食卓は土間にあり、靴を履いて料理をし、靴を履いてご飯を食べる。お風呂は薪で沸かす五右衛門風呂。トイレは外にあり、夜に行くにはかなりの勇気が必要だった。

今なら「古民家暮らし」としておしゃれに紹介されそうだが、当時の私にとっては、ただただ昔の古い家だった。

祖父母は農家。父は会社員をしながら農業を手伝い、母も専業主婦という名の農業従事者だった。温州みかん、キウイ、米、野菜をつくり、子どもたちも当然のように動員された。

黄色い収穫用キャリーに入り、運搬車に乗り、キウイ棚のワイヤーにぶら下がり、田植え前の田んぼで泥だらけになる。自然の中では存分に遊んだ。

それでも、カエルとヘビは今も大の苦手である。自然児にも限界がある

小学校までは、現在のGoogleマップによると徒歩約40分。行きは坂を下り、帰りはひたすら上る。6年生のとき、通学路を確認するため先生が家まで一緒に歩いてくれたが、途中で先生がバテた。先生は帰りに、家族の車で送られていった。

そんな農家の真面目な子どもに、最初の転機が訪れたのは中学生のときだった。

英語の内申点を狙ったら、世界が広がった

当時、松山市などが実施していた中学生海外派遣の募集が、私の通う川内中学校にもやってきた。英語は苦手だった。それでも応募した理由は、

「手を挙げたら、英語の内申点が上がるかもしれない」という、なかなか純度の低い動機だった。

ところが、なぜか選ばれてしまった。行き先はオーストラリアのブリスベン。初めての海外、初めてのホームステイ。英語はほとんど話せず、ホームステイ先の固定電話から実家へ電話をかけ、電話に出た祖父に泣きながら話した。

それでも、バスから見た地平線、広大な土地、気さくで優しい人たちに心を奪われた。山に囲まれた農家の娘にとって、そこには、それまで知らなかった世界があった

オーストラリアに住みたい。その一心で帰国後には職業を調べ、見つけたのが日本語教師だった。「日本語は話せる。習字もしている。なんか、できそう」。今思えば、日本語教師という仕事への理解は驚くほど浅かったが、夢への入り口としては十分だった。

剣道とバイクとワーホリの大学生活

高校の部活では、小学校、中学校と始めなかった剣道を、なぜか初心者で始めた。高校生活はユニークで情に厚い友人たちにも恵まれ、友達に会いたくて学校へ通った結果、3年間皆勤賞を取った。進路は、いったん理学療法士を目指した。お金を貯めてオーストラリアへ行く、とずっと考えていた。理系が苦手なのに理系クラスにいた私に、副担任の先生が言った。「やりたいことがあるなら、遠回りせず、まっすぐ進めばいいのに」その言葉が忘れられず、誰にも相談せず進路を変え、日本語教師に役に立つ勉強ができそうな愛媛大学教育学部へ進学した。

大学では剣道部に入り、アルバイトを掛け持ちし、授業を受け、バイクに乗る毎日を送った。20歳のときには大学を休学し、ワーキングホリデーでカナダのバンクーバーへ、ワーキングでホリデーな生活をしに行った。

バンクーバーでは日本語教師への道は思うようにいかなかった。現地で見つけた日本語学校のオーナーと馬が合わず、私からすれば突然説教され、追い出された。泣きながら、どれほどの時間歩いたのかも分からないまま家へ帰った。それでも、その日のうちに決めた。「泣くのは今日まで。明日から仕事を探そう」挫折が自分の心を強くした。そして剣道をして自分を律しながら、友達を作った。

帰国後は大学へ復学。一応経験までにとやってみた就職活動、地方銀行の面接で将来について聞かれ、「子どもの手が離れたら外国へ行って、日本語教師になりたい」と正直に答えた。面接官から返ってきたのは、「あなたのような人は採用しづらいです」という言葉。そりゃそうだ。安定した道を垣間見るも、結局、そしてとにかく、私が行きたい先は外国であり、やりたい仕事は日本語教師。

(写真)乗り回していたドラスタ400。私の親友、名前はLinda

月給6万円から始まったタイ生活

大学卒業後、月給約6万円、渡航費自己負担という条件で、タイの学校に日本語教師として現地採用で就職した。カリキュラムも、教材も、先輩の日本語教師もいない。英語も十分ではない、タイ語は皆無の23歳が、一人で授業をつくり、生徒指導まで行った。最初の1年は本当に本当に大変だった。

つらい時間をどうにかしたくて、毎日、小さな幸せを書き留める「幸せメモ」を始めた。そしたら心が軽くなって、見える日常が変わった。そして、首都バンコクで剣道を再開した。そこで出会った日本人やタイ人の仲間たちが、私の生活を支えてくれた。稽古をし、飲みに行き、映画を見て、悩みを聞いてもらった。「未来への投資だ」と、ご飯をごちそうしてくれる人もいた。大好きな“my people”ができた。

給料は少なかったが節約して、休暇になるとバックパックを背負い、東南アジアを旅した。剣道を通しても世界の人たちとつながり、行く先々で誰かに助けてもらった。(当時、剣道旅をしたのは、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポール、香港)

惜しみなく優しさをくれる人たちと出会ううちに、こう思うようになった。

私も、人を助けられる人になりたい。世界からもらった優しさを、世界へ返したい。そして、なぜか行き着いた答えが、アフリカだった。

(写真)タイで働いていた学校のTeam外国語。みんな人生の先輩だった

そうだ、アフリカへ行こう

タイで3年半働いた後、JICA海外協力隊に応募し、「日本語教育」の隊員として西アフリカのセネガルへ派遣された。

首都ダカールの大学で日本語を教え、カリキュラムづくりや日本語イベントの企画に取り組んだ。日本から遠く離れたセネガルにも、日本や日本語に興味を持つ学生たちがいる。そのことが純粋にうれしかった。

セネガルには「テランガ」と呼ばれる、おもてなしの文化がある。食事中に誰かが通りかかれば、「カーイ・アニュ(食べにおいで)」と声をかける。バスで荷物を抱えて立っていれば、座っている人が自分の膝に預かってくれる。

もちろん、大変なことも山ほどあった。Wi-Fiの設置業者は約束の日に来ない。仕立てを頼んだ服は、約束の日にできていない。学生が日本祭りで使う動画を前日の夕方に提出し、私は一睡もせず字幕をつけた。断水も停電もあり、フランス語やウォロフ語ができないことを笑われたこともある。

それでも、私はセネガルが好きだった。ありのままの自分で、気の合う人たちといられたからだと思う。そしてあるとき思った。「どうして私の肌の色は、セネガルの人たちと違うのかな」

(写真)団子3姉妹♪左からアミンタ・ファトゥチャム・ラマ(私のセネガルの名前はラマトゥライ・ンダオ)

セネガル初の剣道クラブ

もう一つ、私をセネガルにつなぎとめたのが剣道だった。カナダやタイで自分を支え、大切な人たちに出会わせてくれた剣道へ恩返しがしたい。その思いから、セネガル初の剣道クラブを立ち上げた。

タイでご縁のあった筑波大学の鍋山隆弘先生が、防具や竹刀、剣道着、袴を準備してくださった。送料は、私が活動していた大学の学長に直談判して出してもらった。最初は大学の教室で稽古をしたが、狭くて危ない。ようやくセネガル柔道連盟の施設で稽古を始めると、今度は関係者から「お前たち、何をしているんだ!」と怒られた。。そこで事情を説明し、柔道連盟の会長にまた直談判。理解を得て、無料で場所を貸してもらえることになった。

毎週土曜と日曜の朝10時から稽古。もちろん時間どおりには来ない。「行く」と言った人が来ず、一人で待ちぼうけた日もあった。私は三段で、指導者としてもまだまだだった。それでも、剣道への感謝だけは人一倍あった。日本語教育の隊員なのに、「剣道隊員ですか?」と言われるほど情熱を注いだ。

そして、その剣道が次の仕事を連れてきてくれた。稽古に来てくれていた日本人から仕事のオファーをもらったのだった。

(写真)ダカール剣道クラブ創立5年目に、筑波大学の鍋山先生を講師にお招きした。

アフリカの若者たちと走った4年間

協力隊終了後は、アフリカの若者の海外留学を支援する教育団体で働いた。家庭の経済状況、難民としての暮らし、教育環境の不足。さまざまな困難を抱えながらも、学生たちは家族や自国、アフリカのために学びたいという強い意志を持っていた。

私は日本語を学ぶ学生に集中的な授業を行い、日本文化を教え、願書やビザの準備をサポートをした。日本から来る大学生の研修プログラムも担当した。仕事を趣味だと言い聞かせ、学生のことだけを考えて働いた。猛烈に忙しかったが、ゆかいな同僚たちにも恵まれ、心から大好きな仕事だった。(昔、NHKさんのひめぽんにも取り上げてもらったことがあります!)

気づけば、セネガルで過ごした時間は通算7年3か月になっていた。

(写真)彼らの未来は、私の未来。
(写真)職場はdiversity

セネガルで、「生を営む」

セネガルが私に教えてくれたこと、

洗濯機のない7年以上の生活では、服をバケツで手洗いした。剣道着も袴も、自分の手で洗った。一般家庭では、水も電気もガスも限られている。昼ご飯をつくるだけで、3時間も4時間もかかる。その日にあるお金を持って市場へ行き、その日に必要なものを買う。掃除機がなければ、ほうきと雑巾を使う。すべては、自分たちが今日を生きるために必要な営みだった。

街には「タリベ」と呼ばれる子どもたちがいた。家族と暮らせず、学校にも通えないまま、裸足でお金や食べ物を求めて歩く子どもたちである。笑っている子もいれば、つらそうな顔をしている子もいた。

誰もが娯楽にお金を使えるわけではなく、楽しめる選択肢も多くない。だからこそ、家族や近所の人たちが集まり、お茶を飲みながら、いつまでも話をする。道で人に会えば、まず挨拶をする。元気か。仕事はどうだ。家族は元気か。男性たちから「俺の第二夫人になれ」と本気か冗談か…、みんなでゲラゲラ笑った。

私は、そんなセネガルの人たちから、たくさんの優しさと愛をもらった。そしてセネガルは、私に「生きることをする」ということを教えてくれた。現代の日本では、「生きていること」は当然の前提として存在し、その上で家族と過ごし、仕事をし、勉強をし、遊んだりする。けれどセネガルでは、「生きること」そのものに、多くの時間と力を使っていた。

市場で買った生きた鶏を自分たちでさばく。イスラム教の犠牲祭では、つい先ほどまでメーメーと鳴いていた羊をさばき、その命を家族や周囲の人たちと分かち合っていただく。水を確保し、食材を買い、火を使って料理をし、手で洗濯をする。私たちはほかの命をいただき、自分の手と体を使って、今日を生きている。その事実が、暮らしの中にはっきりと見えていた。

医療体制が十分ではないため、首都の郊外に暮らしていても、適切な医療を受けられないまま命を落とす人もいた。どうして亡くなったのかと尋ねても、返ってくるのは、「神様が決めたから」という言葉だった。生きることと、死ぬこと。そのどちらも生活から切り離さず、ただ今日を生きる。

便利な暮らしではない。理不尽なことも、つらいことも数え切れないほどあった。それでも私は、自分の手と体を使って「生を営む」セネガルの暮らしが好きだった

世界で人を助けたかった私に生まれた問い

2020年、新型コロナウイルスの感染拡大によって、私は日本へ一時退避することになった。東温市の実家で5か月を過ごし、がんの治療を受ける母と、会社員をしながら農業を担う父の姿を、初めて間近で見た。

人を助けられる人になりたいと思い、アフリカへ渡ったはずだった。

しかし実際には、タイでもセネガルでも、私は人に助けてもらってばかりだった。そして、遠くの誰かを支えようとしながら、自分の家族が直面している現実を、私はよく分かっていなかった。自分の家族も助けられていない私に、遠くの誰かを助ける資格があるのだろうか。セネガルに戻った後も、その問いは消えなかった。セネガルの人たちは、家族や近所の人をとても大切にする。大家族で暮らし、子どもも高齢者も、誰か一人に任せるのではなく、みんなで支える。

私がセネガルの人たちから長い時間をかけて教わったのは、「家族を大切にすること」と、「生を営むこと」だった。そして私は、実家へ帰る決断をした。

母の時間と、愛媛での暮らし

2021年3月、私は東温市へ帰ってきた。世界でもらった恩を愛媛へ返したい。世界の楽しさを愛媛の人たちに伝えたい。その思いが、現在のJICAの仕事につながった。一方で、日本の暮らしに物足りなさを感じ、セネガルへ帰りたいとも思い続けていた。なぜ毎日が楽しくないのだろう。

考えた末に気づいた。セネガルでは、私はそのままの自分でいられた。「生を営む」私の好きな暮らし。誰とでも冗談を言い、ケラケラ笑う人たち。時間があれば散歩や旅に出て、心のままに動いていた自分。またその道に戻りたい。そう強く思い始めた頃、母の余命が告げられた。

母が一番つらかった。でも、父も、私も、兄妹も、伯母も、みんなつらかった。母が生きている間は、自分のことよりも母と家のことを優先した。仕事もセーブし、死と向かい合った母に自分なりに寄り添い、見送ることができた。それはきっと、セネガルが私に教えてくれた、かけがえのない家族との時間だった。

母がいなくなり、昭和生まれ、農家育ちの頑固な父も落ち込んだ。私は母が担っていた家事を引き受け、足腰にガタが来ている父の農作業を手伝い、父が寂しくないよう一緒にご飯を食べた。母の姉である伯母のサポートもした。父と私は性格が似ているので、当然ぶつかる。けれど父は、母を心から愛し、いつも家族を一番に考えて生きてきた人である。今では、父も家事全般をするようになった。人はいくつになっても変わる。娘に全部させるのは申し訳ない、と優しい父だからこそ変わった。

世界に出たい。それでも今は、ここにいる

現在、私はJICA愛媛グローカル(愛媛県国際協力推進員)という職務を業務委託という形で請け負って、JICAの仕事をしている。愛媛と世界をつなぎ、国際的な経験を持つ人たちに愛媛に来てもらい、愛媛を一緒に元気にするというような仕事に携わっている。(愛媛グローカル人材育成プラットフォーム

それでも、「今、一番したいことは?」と聞かれたら、今も迷わず答える。 「アフリカに住みたい」

世界へ出たい気持ちがなくなったわけではない。セネガルで過ごした日々を思い出し、アフリカに住みたいと今でも何度も思う。それでも今は、愛媛にいる。ここに家族がいて、今は家族とともに生きる時間だと、自分で決めているからだ。以前の私は、誰かの役に立ちたいと思い、遠い国へ向かった。けれど世界を回った先で教えられたのは、一番身近な人を大切にすることもまた、誰かのために生きることだということだった。世界へ向かうことと、家族を大切にすることは、どちらか一つを選ぶものではない。今いる場所で家族を支える時間も、私が世界で学んだことの続きなのだと思う。

私はこれまで、たくさんの国を訪れ、さまざまな人や文化に出会ってきた。違うことが、楽しかった。言葉も、宗教も、肌の色も、暮らし方も違う。それでも、どこへ行っても、人は誰かを思い、誰かに支えられながら、その場所で懸命に生を営んでいた。人と人がつながり、ときに厳しく、ときに温かく、命が紡がれていく。その姿を、世界のあちこちで見てきた。

そんな世界で、これからも人の役に立てる人でありたい。そう願う。今は、家族とともに生きる。家族がそれぞれ元気で、幸せに、自分の人生を歩めるようになったとき、私は助けを必要とする誰かのもとへ向かえればいい。今は世界からもらった優しさや、世界が教えてくれたことを、今いるこの場所で、少しずつお裾分けをしていきたい。そして私は愛媛にいても「世界から呼ばれる人」であり続けられるよう、頑張っていきたい。

(写真)数少ない仕事中の写真。愛媛でのお仕事の様子

おまけ

帰国後も、ニューカレドニア、フィリピン、アメリカ、ブラジル、パラグアイ、アルバニア、台湾など、さまざまな国を訪れた。世界が大好き。剣道も好きで、15カ国ぐらいは剣道をして友達を作った。直近はブラジルで交剣知愛。たてヨコへの参加も、大学剣道部の三浦先輩からのお声がけであり(Thank you!)、剣道はいろんなご縁をくれる。

日本では、竹刀を草刈機に持ち替えてブンブン振っている。そのかいあって、今年も無事、穂が実った稲を刈り終えることができた。体を動かすこと、ビール、広大な景色、自然、飼っている柴犬のWakoと猫のFukoが好き。

世界を飛び回ってきた農家の娘は、今日も愛媛で、家族と田んぼと世界の間を走り回っています。

(追伸)たてヨコで知り合った山中さんに声をかけていただいたインタビュー記事も、数年前のものですがお時間ありましたらご覧ください。

ECCCA環境Web Magazine JICA愛媛 大石紗己さんインタビュー 受け取ったやさしさを原動力に、愛媛から途上国支援の輪を拡げる

ABOUT ME
大石 紗己
愛媛県東温市出身。 大学卒業後はタイで日本語教師として現地の学校に勤務。その後、西アフリカのセネガルへ日本語教育の分野で教育支援に携わり、その傍ら大好きな剣道を広めようとクラブを創立。 2021年3月日本帰国し、現在JICA愛媛デスクで活動中。
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