たてヨコ愛媛には長く所属しており、たくさんの知り合いもできました。しかし、そういえば皆さんにちゃんとした自己紹介をしたことがなかったような気がします。

本名、永渕竜朗。妻、双子の男児、マルチーズ、の5人家族。カナダ国ミシサガ市在住。
生まれは1972年10月28日。ホリエモンの一日前。しかも近所。経済成長著しいころとはいえ、戦後まだ27年目で福岡県のとっても田舎の貧しい家庭に生まれました。親父は満州生まれで、その実の父親は沖縄で戦死。本人も終戦直後命からがら佐賀に帰国。おふくろは朝鮮戦争が始まった月に生まれ、博多の朝鮮部落のそばで15歳から天ぷら屋に住み込みで働きます。その両親は結婚後親戚の紹介で、この田舎の自宅兼作業場で小さな服飾会社の下請け仕事をしていました。
私の育った家は3部屋しかない古びた平屋で、子供三人で4畳半をシェア。周りは田んぼと山。自転車はすべて拾い物。お風呂は二日に一度。そうした貧困な中、私たち兄弟三人は幸せに育ちました。貧しくてもいつも両親がそばにいるってのは、今考えると幸せでした。ストリートチルドレンとか“おしん”とかもそうですが、子供にとっては貧しいとか、ものがないことって、何てことなかったですね。

私の時代の田舎の中学校は、まさにスクールウォーズで、リーゼントをかけた不良が、本当に窓ガラスを割りまくっていました。クラスの3割くらいが不良だったような気がします。私は内気で運動音痴でしたので、まあいじめられました。ターゲットにされた一年間くらいは、休み時間になって先生がいなくなると彼らが寄ってきて、殴る蹴るの仕打ちを受けました。でも、弟たちに心配かけたくなくて、両親には黙っていました。とてもつらい思い出ですが、20歳の時ある宗教家に恨みは何の役にも立たないから捨てなさい、と言われ捨てました。
高校・大学と進み、大学時代には人生に悩みましたね。彼女もできましたが、なぜか女性にまったく愛情をいだけませんでした。そして本を読みまくりました。まさに、何のために生まれて何をして生きるのか、についてです。答えは出ませんでしたが、徹底的に悩んだことは今になると必要な時期だったと思います。このころ仏教に出会っていればよかったとも思うし、そうなると出家していたかもしれないな、とも思います。

大学三年生から大学院に至る三年間は一生で一番勉強した時期でした。たまたま厳しい環境の研究室に所属し、たいていの学生が遊んでいる時期に勉学に打ち込めたことはのちの血肉になりました。それがきっかけでエネルギーという分野がライフワークになります。幼少期から環境問題に課題意識を持ち、大学でエネルギーに関わり、今は環境とエネルギーに関わる仕事をしているということになります。
大学院卒業後いったんエンジニアリング会社に就職しましたが、27歳の時に転機がありました。時は少しさかのぼり、たぶん25歳ごろの時自宅に一本の電話がかかってきます。その方はボウリングの日本代表選手で、カリフォルニアの国際大会で私の親戚に会ったと。その人はエリック・ナガフチさんという日系三世のボウラーで、聞くと私の親戚でした。私はその方にお聞きした電話番号に国際電話をかけました。エリックさんの母親が少し日本語を理解できたので、色々と話しをしたあと、ぜひおいでという話になりました。
そして27歳の時に弟二人を連れてカリフォルニアのナガフチさん一家に会いに行きました。親戚一同で総勢30人くらいでしょうか。一週間の滞在でサクラメント、ロサンゼルスで次々に歓待を受けました。そこで受けた感動と興奮が忘れられずに、帰国直後に会社に辞表を出します。海外で働こうと心に決めたからでした。今考えても人生最高の決断です。ここで、環境xエネルギーx海外、という私の人生のフォーミュラが完成しました。

三浦工業という会社がたまたま求人を出していました。縁もゆかりもない四国ですが、海外事業を伸ばしていきたい、とあります。大学の恩師に相談したところ、当時流体力学の大家であった妹尾教授が顧問をしている会社ということで入社を勧められました。そうした縁でミウラに転職する運びとなります。これが2000年6月。松山行きが決まってまずやったこと、もちろん坂の上の雲の読破です。松山が一気に好きになり、そこに住むことに誇りを得ました。

その後、2008年、35歳の時に念願叶い、アメリカ支社に異動することになりました。そこで大変充実した8年余り過ごし、まさに毎日が刺激にあふれた素敵な経験をし、すっかり海外のマインドセットになりました。米州事業に貢献した自負はありますが、最後はいろいろな失策を犯して帰国を命じられます。その後7年間は愛媛の本社で働くことになりましたが、自分の実力的にも周囲の環境的にも残念なことに適応することがままなりませんでした。まあこの辺りはあまり面白くもないので割愛します。

その日本にいた7年の間にもっとも印象的だったのは、たてヨコ愛媛との出会いです。サイボウズの三浦さん、久保さんから稲見さんを紹介していただき、勉強会を始めたのが2019年。その後いろいろなイベントやプロジェクトを通じて素晴らしい仲間と、それを中心としたコミュニティが形成されました。これまで日本では同質で単一な人間ばかりとかかわり続けていた私にとって、ここで会う人たちはまさに多様で多彩。すごい人も、いい人もいれば、浮いてる人も、ややこしい人もいます。そんな人たちと過ごす時間が最高で、何物にも代えがたい学びになりました。

そして2024年、念願である海外への復帰が叶いました。北米といえば聞こえはいいですが、カナダの市場はアメリカの1/10でミウラグループ全体の売上の1%しかない小さな存在です。ここ10年ほどは完全にネグレクト状態で、私が赴任した2年前は問題だらけのぼろぼろの状態でした。ここにも面白い話がいっぱいですが、まあ社内の話だし長くなるので、また何かの機会があれば深掘りさせてください。ただ言えることは、私はここが大変気に入っており、子供たちも完全にカナダ人になっており、家族でここに骨をうずめたいと思っていることです。

https://www.linkedin.com/company/miuracanada/
とても小さな会社で日本の本社から見れば芥子粒のような存在ですが、でもそこには一生懸命に働き、ひたむきに生きている人たちがいます。私のような人間に対しても信頼し、一緒に目標に向かって取り組むひたとたちがいます。色々な経験をしてきた私ですが、50歳を過ぎてやっと自分の居場所が得られた感覚を持っています。そして、Steve Jobsじゃないですが、今すべての過去の経験や失敗がつながって、それがこの地で出力されている感覚が確実にあります。もちろんたてヨコ愛媛の経験は、その中でもおおきなDotです。

これまでいろいろな人にいろいろな形で自己紹介をしてきましたが、たぶんこのコラムは、その裏側を見つめなおした内容だったかと思います。色々なことがあり、その結果大変幸せな今があり、そしてそこにいかにたてヨコ愛媛が貢献してくれたか、これを読んでいるあなたにお伝えしたかった。そしてお礼を申し上げたかった。本当にありがとう。


























