少し前の投稿にも『推し活』がテーマのものが、ありましたがみなさんの中で【推し活】と聞くとどのようなイメージがあるのでしょうか?
私は、どうしても【推し活】というワードを聞くと自分自身がかなりの推し活をしているので、
アイドルの追っかけ
というイメージになってしまいます(笑)
明るいペンライトを両手に持ち!合いの手を入れながら!振り付けをしながら!ライブハウスでノリノリで『〇〇ちゃーん』みたいに、叫ぶ(笑)そんなイメージです。
私が推し活という言葉を初めて知ったのはいつだったのか?そして、推し活という言葉が出てきたのはいつの頃だったのか?
【推し活】という言葉を知るまでは、ずっとファンをしている…とか、追っかけをしている…とかそんな言葉で表現されていた気がします。
改めて推し活とは?
推し活とは、自分にとって好きな人やキャラクター(推し)を応援する活動です。アイドルやアーティスト、二次元のキャラクター、人物以外の推しなど、さまざまな対象がいます。
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推し活での「推し」はアイドルやアニメキャラクターに限らず、自分が好きで応援するものすべてが対象となります。
trans.co.jp
ちなみに、アイドルグループの特定のメンバーを推すのを「単推し」、グループ全体を応援することを「箱推し」と言うそうですꉂ꒰笑꒱
私の場合の【推し活】は確実に推し活なんて言う軽い言葉で、表現したくない程の熱い想いがあります。
紛れもなく、私の人生を支えてくれている程の大きな存在だからです。
今では
「推し活があったから生きてこられた」と言っても過言ではないと確信しています。
それぞれ、推し活をしている人であれば、対象がなんであれ、きっと人生において、また自分自身の日常に置いて、どれだけの影響を与えられているか?
また、自分にとってどれくらい大切な物か?
人生においての優先順位や価値は如何程か?そんなことを感じることは多いのではないかと思います。
とても前置きが長くなりましたが(笑)私にとっての推しは元光GENJIの諸星和己(もろほしかずみ)さんです。
時代が昭和、平成、令和と流れ…私も年齢を重ねて私の人生においてもたくさんの出来事や変化もありましたが、唯一ずっと変わらないことだけはコレ。
私が諸星和己さんのファンである事実です
改めて光GENJIと諸星和己さんのことを少しご紹介。
光GENJI(ひかるゲンジ)は、1987年8月19日から1995年9月3日にかけて活動していた、日本の7人組男性アイドルグループ。通称「最後のスーパーアイドル」と呼びれている。
颯爽としたローラースケートパフォーマンスやアクロバットがコンセプトであり、光り輝くような元気全開のフレッシュさ・新鮮さを前面に打ち出していた
メンバーは
光GENJIが結成された1987年の時点で10代後半だった2人が「光」(ひかる)、10代前半だった5人が「GENJI」(ゲンジ)となった
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諸星 和己(もろほし かずみ、1970年8月12日 – )は、静岡県富士市出身の歌手、俳優、タレントであり、男性アイドルグループ・光GENJIの元メンバー。
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光GENJIのデビュー当時は、私は小学生でした。
当時、TVを見て衝撃を受けました。今でもあの時の衝撃は覚えています。
今でも、私が諸星和己さんのファンだと言うと、必ず帰ってくる言葉は
「懐かしい!」
「ずっとファンなの?」
「今、かあくん何してるの?」
この3パターンの言葉が必ず返って来ますꉂ꒰笑꒱
その後は、昔〇〇くんのファンだったんだよねぇー。みんな、光GENJIの下敷きとか持ってたよね!
そんな話で盛り上がるのが定番です(笑)
当時は、まだ、CDの時代でした。そして、CDプレーヤー自体。持ってる人の方が少なくて、放課後にCDプレーヤーを持っている友達の家に集合して光GENJIの曲を聞いていたことを思い出します。
そして、一世風靡したローラースケート!
皆さんは持っていましたか?ローラースケート!
靴型のローラースケートを持っている人がとても羨ましかったのを覚えています。放課後にみんなでローラースケートで滑って、光GENJIの振り付けを練習していました。
その頃の私は10歳。その時から今までずっと諸星和己そんのファンなのです((笑))
自分でもそんな未来は想像していませんでしたが、そうなっていますꉂ꒰笑꒱
私にとっては推し活という名の「希望」でもあるのです。未来への希望です。
初めてテレビで諸星和己さんこと、かぁくんの笑顔を見た時の衝撃は今でも忘れません。私の中の衝撃はローラースケートではなく彼の笑顔だったのです。。彼の笑顔は常に健在でした。どんなときも笑顔。怪我をしていても笑顔。彼は、光GENJIとして活動中に何度も骨折をされています。
時には、両足同時にギプス固定していたこともありました(笑)
それでも、本当にどんなときも笑顔でした。今なら、わかります。
それが彼のプロ意識であり、責任感!だったから。
そのスタンスは今でも変わりません。
ステージにたった瞬間から、アイドルなのです。
子供の頃、私は小学校でいじめにもあっていたし、給食が食べられないことも苦痛で、日々何も楽しくありませんでした。
けれど、そんな中でも楽しみだったことは放課後のローラースケートとテレビの音楽番組や友達との光GENJI談義、学校帰りに立ち寄る駄菓子屋さんでのプロマイドくじ引きでした。
やがて、時が流れて中学生になり、大きく人生を変えるターニングポイントがやって来ました。
なんと!地元徳島に、光GENJIのメンバーが来るということが決定したのです!しかも、徳島担当は諸星和己さんという!奇跡でした!
Meet Meという楽曲のキャンペーンでした。
その楽曲を購入すると必然的に握手会に参加できるという夢のような企画でした。
当時私は中学生2年生。
生まれて初めて握手する芸能人が愛してやまないかぁくんだったのです!
本当に奇跡としか言いようがない状況だと思いました。一人で参加するのは怖くて、興味がない友達の分まで購入して誘って付いてきてもらいました。
その一瞬。1秒もないくらいの握手会で、私の推し活人生が始まりました。
そこから、地元徳島で当時光GENJIのファンをしているお姉様方や色んなファンとの出会いがあり。高校生になった頃にはアルバイトしたお金で大阪や横浜までコンサートに行くようになっていました。
当時の光GENJIのコンサートは応援グッズが必要でした。
・うちわ→推しメンバーの名前が書いてある
・ボード→推しメンバーへのメッセージを書く
・はっぴ→メンバーカラーの法被
・お揃い衣装→メンバーとお揃いの衣装を作成して 着ていく
本当に懐かしい時代です。
そんなこんなでしっかりと推し活をするようになり看護師への道に進むことを決めた時でも専門学校に通いながらアルバイトをいくつもかけ持ちして、推し活資金を貯めていました。
そんな時、衝撃が走ります。
突然の卒業🎓光GENJI解散の決定でした。
当時私は看護師専門学校に通っていました。そして、臨床実習を控えていました。だからこの時は臨床実習があるからとコンサートのチケットは申し込みしてなかったのです。それが最後のコンサートになるなんて想像もしてなかったから。
そしてついに1995年9月3日 光GENJI解散
本当にショックすぎました。いつもならとっているチケットをこの時はとってなかった。でもどうしても諦めきれず。
当時アルバイトで貯めていた貯金38万円ほどを全て持ってチケットを持っていたファンの友達のお姉様方と現地まで行きました。
しかし、そんなお金で買えるはずもないほど、定価4500円ほどのチケットが100万円ほどまでなっていました。最後の最後にコンサートに行けず、会場の外で泣き崩れていたことは一生忘れません。
けれどあの頃から約29年。光GENJIの解散した年の年末には諸星和己さんは自分でファンクラブを立ち上げました。
【GOLD CLUB K】
12月25日には新高輪プリンスホテル飛天の間で結成ライブが開催されました。その後、2000年に自社音楽レーベル「PINK A ROCK RECORDS」を設立して今の形になっています。
その時からです。
彼の山あり谷ありの活動をずっと応援してきて約29年。
彼のファンを辞めようと思ったことは何度もありました(笑)
でも不思議なもので、その時には必ずライブやイベントで気持ちを掴み直されるような出来事が起こるのです!
俗にいうファンサ(ファンサービス)が限定的に自分だけにあったり(笑)
もちろん偶然が重なっていることはありますがそれでもファンを続けられるほどの想いになるから不思議です。
そして、今となっては、彼のこの29年間の動きは本当に一言では言い尽くせない努力と忍耐の上に成り立っている、紛れもない現実です。
諸星和己さんはアメリカの911のときにはNYに在住されていました。そこで彼の人生の価値観も変化したと話されています。
当時、めざましテレビのひと枠で
Be New Yorkerというコーナがありました。
そのコーナーは諸星和己さんがリアルなNYの状況を生放送でレポートするというもの。当時はなかなか帰国されない中で、ファンとしてはとても嬉しい時間でした。
https://youtu.be/wIkAxG4KwRE?si=TC36qxqdMH-y1Ly7
推し活がもたらしたもの
誰かのファンになるということは、本当に尊いことだとつくづく思います。
私の人生も、さまざまな変化がありました。心を病んで引きこもって動けなかった時期。
人生を諦めようとした時。
とても辛すぎる離婚をした時。
人生を投げ出したくなる時に、常に心の支えであったものは、推しの存在でした。
人生を諦めようとした時も。そんな時に限って次のイベントのお知らせが来たりするのです(笑)
ファンになった前半期は本当にたくさんのファンの仲間とあーだこーだと【ダメ出し】をしながらライブを楽しんでいました。感覚的には育ての親のような感覚でꉂ꒰笑꒱
なんて上から目線なんでしょうꉂ꒰笑꒱
けれど、彼が独立した時から私が必ず決めて実行しているルーティーンがあります。
それは、自分が参戦するコンサートやイベントには、どんなに小さな花束やプレゼントでもいいから必ず持参して手紙と一緒に届けること。
これは、今でもずっと続けていることです。手紙に至っては同じ規格の封筒で。同じ宛名で。
少しでもメッセージや想いが届くようにとの私の小さな未来への伏線です。
ずっと私がその手紙に独立から約15年くらいは書き続けてきた同じ文言の文章があります。それが
【⠀どんなときも 自分らしく
和己さんのペースで焦ることなく終わりのない夢に向かって一歩一歩、歩いていってください】
この文章を必ず手紙の最後には書き続けて来ました。
するといつの頃からか、この言葉を彼が使うようになりました。もちろん偶然かもしれません。けれどライブの語りの時。同じ言葉を使うようになったのです。
ただ、言いたい言葉がリンクしただけかもしれません。でも私にとっては大きな大きな答えのように感じました。受け取るのは自由です(笑)
勝手に勘違いするのも、想うだけなら自由です(笑)
けれど、ことある事に手紙に書く内容は、もちろんLIVEやイベントの感想も書いてきましたがそれだけではなく近況報告も必ず書き記してきました。
だから余計に、偶然の出来事も必然的に感じるのかもしれませんが、それも自由です(笑)
この写真の中で諸星さんが手に持っているミニブーケは、私がプレゼントしたものです🎁
勝手に気持ちを受け取ることは自由だけど、現実として偶然が重なることもある。けれどそこに何かの伏線があれば可能性は無限になるということ。
これが、
紛れもなく約30年以上諸星さんの推し活をしてきて感じていること。
彼の生き方をずっと見てきた事で、応援してきたことで、私自身もチャレンジするということをできるようになり、諦めなくなったこと。
自己満足の世界ではあっても、何かを伝えたいと思った時にはすぐに伝える。躊躇せず伝えることの大切さを学んだこと。
しっかりとした明確な確証がなかったとしても自分の心が受け取って信じたことが現実になるということ。
痛いファンだと思われたくないと防御して、飾っていた頃よりも、周りの目や他のファンの反応を気にせずに伝えたい思いはそのまま伝える。伝えたい時に伝える。
そうできた時の方が、相手に想いが届くのではないかと、ココ最近は思うのです。
今は、自分のために。セルフケアのために。
伝えたい思いがある時には躊躇せず伝える。手紙でもファンメールでも。本人が、メッセージを読んでくれていなくても別にいい(笑)という大前提の元で、正直に、伝えたいことを伝えよう。
そう決めています。
それと同時に、ファンメッセージを送ったあとはブログ更新の確率が高いことにも最近気がついたのです!
不思議です。
私の今の夢は、諸星和己さんとスターバックスで
キャラメルマキアートを飲みながら人生について語り合うことꉂ꒰笑꒱
相談したい時や本当に落ち込んだ時にLINEができるくらいの距離感の知り合いになることꉂ꒰笑꒱
これが推し活に関しては残りの人生で成し遂げたいことです!
ぜひ、皆様にもご協力お願い致します(笑)
推しがいたことで何度も苦難を乗り越えてきた私。
今でも、苦しい時は「次に会うまでは頑張る」と言い聞かせながら日々生きています。
本当に彼の存在、推し活とは尊いものだと心から思います。
上の写真は2003年のイベントと2013年のイベントの時のショットです。
このショットは昨年度のファンクラブツアーの時。
どんな時も、自分にとって支えになるもの。
皆さんはありますか?
彼が居なくなったらどうなるのか。。。そんなことも時々考えます。芸能界の訃報が流れる度に考えますが、だからこそ、会える時に会いに行く。
伝えられる時に思いを伝える。
とても大切にしていることです。
だから、私にとっては、推し活=未来の希望だと
確信しています。
本当に長くなりましたが、熱い想い。人生においての大切なもの。そんな想いで書いた今回の記事。何か感じていただければ幸いです。
きっとこれからも私は色んなことにチャレンジし続けると思います。
そして、少しでも、彼に近づけるよう。人間的にも成長していきたいと思っています。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
最後に彼の語録から。
幸福度、幸福感とは
感動名言集
他人から
決められるものではなく、
自分が決めるもの。
人は幸せだから
笑うのではなく、笑うから幸せになる
感動名言集