
空にぽっかり浮かんだ雲。そういえば最近空を見上げなくなった。だから雲を見なくなったりしていませんか?
ほらほら無意味にスマホばかり見ない。はい!することないからってゲームをしない!! あ、勉強は進めて下さいね。
スマホが普及し、移動時もスマホを見てすっかり空を見上げることも少なくなったと今だからこそたまには空を見上げてみませんか?だって
青い空が見えぬなら青い傘広げて(宇多田ヒカル 2003年 より)
ではここでお願いがあります。
あなたが見上げた空にポツンと浮かんでいる雲。その雲をいますぐ消してください!!

「かめはめ波で消そう!」と構えるとか?ではありません(笑)

これを読んでいる全員が「絶対無理」って思ったはずです。
でも、車を運転中や町中を移動中、見上げた空にあった雲がいつの間にか消えていていることありませんか?勿論、物理的に風が吹き雲を消し去ってしまうことはあります。何が言いたいか?
雲と消すいうのはあなたの無意識のフィルター
そのフィルターに気がつくきっかけになり、さらには起業のに繋がったのが今から紹介する哲学の話。前置きが長くなりましたが、雲を消す話から哲学の世界に皆様をご案内します。
陽明学の基礎知識
こんにちは。吉原匡樹です。今まで愛媛と三重のネタを中心に書いてきましたが、今回のコラムは今まで書いてきたネタとは違い、起業のきっかけにもなった「陽明学」について私なりの解釈で書いてみました。この陽明学は、普段の生活の中に生かせるもの このVUCA時代に適している要素もあります。個人的にオンラインの勉強会に5年以上参加させていただいておりますが、あくまでも吉原解釈ということで最後まで読んでいただければ嬉しいです。
はじめに・・・・
陽明学(ようめいがく)は、明代中国の儒学者である王陽明(おうようめい、1472–1529)によって体系化された儒教の一派で、「心即理(しんそくり)」という思想を中心陽明学は、朱子学(しゅしがく)と並ぶ中国儒学二大潮流の一つであり、日本を含む東アジアに大きな影響を与えました。陽明の死後弟子たちが陽明の話したことをまとめ書籍化したのが伝収録。

王陽明は当時の中国でめちゃ優秀な人物 しかも学者ではなく軍人!まさかのバリバリの優秀な軍人ですよ!
そして、彼のおじいちゃんやお父さんは彼以上に優秀過ぎる人物で超エリート家系。そんな家庭環境で陽明も当時最先端の東洋哲学や朱子学、仏教、哲学などを自分なりの解釈をもって咀嚼して後輩や部下、弟子たちに教えてました。でもメモ禁止なんです(笑)
そんな中で、家系が優秀過ぎるがゆえに陽明は色々と思い悩みながら大人になっていく。家系が優秀する過ぎる故、その環境からグレたりしながら(時には尾崎豊の「15の夜」の様に)
でも、自己探求を怠らず、地方に飛ばされて出世街道から外れても学んで自分なりに咀嚼してそれを教え始めた。それが評判となって多くの弟子に恵まれ、彼の考えは広がっていきます。やっぱりメモ禁止なんです(笑)
そして死後その弟子たちがまとめたのが伝収録。王陽明が話したことを弟子たちがこそっとメモしたり必死に覚えて残したものが書物化し、それが江戸時代17世紀に日本に伝来します。その時は陽明学とは呼ばれず「心学」と呼ばれ江戸を中心に大流行します。
その陽明学、日本で浸透したのが支配層ではなく町民や商人などの被支配層。朱子学が主に武士に浸透したに対して、陽明学は商売人や町民など一般人に浸透した学問でした。そしてもう一つ陽明学が浸透した理由は当時の識字率。幕末には全国に1万5千以上の寺子屋があり、江戸時代中期の人口100万人、成年男子の識字率70~80%は世界一といわれる最先端と言われるヨーロッパのはるか上を凌ぐ識字率を誇っていました。(同時代のイギリスやフランスが30%程度だったらしい)
寺子屋では今の学校の様に前を向いて勉強する「講学」と呼ばれるスタイルではなく、車座になって教室のあちこちでお互いが意見交換、考えを述べる「座学」。そこして学んだことを自分たちの生活や商売に生かす商人、町人農民。あちこちで学んだことを今度は別グループで意見交換し互いに学びあい意見交換するスタイルが被支配層に浸透した理由を感じられます。また当時は貸本屋が多くその数は6550軒ほど。江戸だけで1000店近くあったのではないかと推定され、広く一般に浸透していたことがうかがえます。

その学んで体感したことを日常生活にどのように生かして行くのか?規律、体裁を重んじる武士に朱子学が浸透したのに対して、より実学重視の町人や一般市民に浸透したしやすかったというのもあります。(朱子学の有名人と言えば林羅山、新井白石など)
そして江戸末期にかけて陽明学に大きな影響を受けた人物として大塩平八郎、佐藤一斎、山田方谷、河井継之助、西郷隆盛、高杉晋作、吉田松陰、 渋澤栄一等(下記写真左上から右下に名前順)いわゆる幕末から明治維新にかけて活躍した人物がこぞって学んだのがこの陽明学です。もし、お手元に山川出版の日本史があれば開いてみて下さい。

陽明学の基本3要素
陽明学は、中国の明の王陽明によって創始された儒学の一派で、「心即理」をモットーに、本来持っている心そのものが人の本質だと考えました。また、心と行動が自然に一体化することを「知行合一」という言葉で表し、知性を重視する朱子学とは異なり、行動を重視する学問でした。
①心即理(しんそくり) 王陽明の考え方の根幹をなすのが「心即理」です。これは、「人間の心はすでに道理(理)を含んでいる」という考え方で、すべての人が本来、生まれながらにして正しい道理を知っており、それを実践する力も持っているというものです。 朱子学が「理」を外部から学ぶものと考えるのに対して、陽明学では理は外部にあるのではなく、自分の心が理性であるとします。
②知行合一(ちこうごういつ) 「知行合一」とは、知識と行動が一体であるべきだという主張である。この考えは、学んだことを実践することに重きを置き、知識を行動に警戒できない場合、それは真の知識ではないとされます。
③致良知(ちりょうち) 「致良知」は、個人が自分の持つ「良知(本来の責任を判断する能力)」を最大限に発揮し、正義的に正しい行動をとるべきだという教えです。陽明学では、人間はすでに生まれながらにして正義的な判断力を持っており、それを研ぎ澄ませることで理想的な行動を取れると考えます。
学んだことを即生かすという点では現在の私たちのビジネスの学びにも通じる部分はあり、何よりも「心学」と言われただけあって人の心に訴えかける。そのキーワードが「良知」と「知行合一」という考え方です
良知と知行合一
良知とは人は生まれながらにして「お天道さんがみてもはずかしくないこと」を知って行動できるという考え方、知行合一は知識と行動が一体であるべきという考え方だと思います。
陽明学では基本的に生まれながらにして人は良知を知っていていつでも行動できるという考え方。でもいつの間にか行動できなくなっていませんか?その例として
例えば・・・・(関西弁風に)
あんな、あんたが電車に乗っていてある駅から杖を突いたお年寄りが乗ってきた。さて、あんたはどうする?
- 寝たふりする
- 気がついたけど見て見ぬふりする
- さっと席を譲る

どの行動をとるかはあんた次第。でも譲って断られたり、ほかの乗客から「善人ぶってる」と思われたりするのが嫌やって一瞬頭よぎるやろ。せやから寝たふりしやへんか? で、その後、なんか罪悪感を感じへん?それはな、あんた本能的に「その人に席を譲った方が良い」ということをわかっているからや!本心ではわかっているから
あとは親孝行。親と仲たがいしていても親孝行した方が良いな?しっているやろ?親孝行している場面とかみたら心が苦しくならへんか?それも本心で親孝行がええことやって知っているからや。でもいろんなことが邪魔してできなくなる。その邪魔しているものが私欲、絶対にそうした方がええなと分かっている事、生まれながらにして備わっていることが良知や。
真理は「知っている事」と「理解している事」はべつものであること。行動が伴っているかどうか?ということです。つまり行動できていないことは理解できてないということ。また、できていてもそこに「欲」があると本来の目的を忘れてしまい、本筋からは離れた行動をとってしまう事に繋がります。
学びすぎるとフィルターが増える
最近の企業や人の不祥事などをみていると「なんで?」と感じることが多い、すごく立派な経営理念を掲げていても、起こした不祥事なトラブルを見て、なぜそのような行動をとったのか?何を感じてそのような動きに言動になったのか気になる面もあります。でもそれはその人、企業でないとわからないので敢えてここで深くは追及しません。
陽明学は心学であるという特性から「心の動き」「どう感じて行動につながったか?」がキーであると思っています。例えば資格取得やMBA、リスキリングをはじめとする学び、純粋に勉強したいという思いから始まるものもあれば、資格取得したらこんなメリットがある、こういう利益につながるから学ぼう等、「目的」と「手段」が入れ替わってしまうことありませんか?わかりやすく言えばRPGで修行して武器も入手して強くなっていくけども、最強破壊力と最強防御力を手に入れても俊敏性がなくなるので逆効果ってのもあります。
私は陽明学で学んだ「お天道に恥ずかしくない」という基準が行動するようにいや、気がついたら行動してしまっています。(←これ事実です)どちらかと言えば勝手に体が動いているといった方が良いかもしれません。目の前の事実に対して体が動いてしまっている。
学びすぎると「フィルターが増える」っていのも論理思考が強すぎると、『本当はこっちのほうが「お天道に恥ずかしくない」んだけど反対の方が良いな』と頭で考え自分で自分を納得させ行動をとる。ある意味人間の本能を論理でだましているかもしれないな?と感じています。
そういう自分に気がつけるきっかけになったのがこの陽明学。月1回 日常の自分とは全く異なる世界に触れ、「見えないものが見える」「雲を消せる」なって非現実的な話が宇宙人たちの間で飛び交います。でも、みんなそれぞれのしごとで課題や悩みを抱えていますが、オンラインでその場にきてフラットに話、2時間後現実にかえっていく(笑)そんな場に社会的地位も、仕事も関係ない世界に触れさせていただいています。
くもを消す話はどこへ
陽明学は今の自分を気がつかせてくれるきっかけにすぎません。それは非日常に触れているから。「今、自分ってこんなんやな?」っていうのに気がつけるようになり「なんでこうせえへんの?」的なべき論は減ったように思います。だから一緒に学びましょうとも言いません(笑)

皆さんの中でそれぞれの芯があると思います。私のイメージは玉ねぎです。その玉ねぎの皮を外から1枚ずつ剥いている、それは自分の固執、捕らわれを剥がしている感じがします。
生まれてから半世紀生きてきた今までの衣を剥がしている感じです。だって生まれてきた時はそれだけでみんなに喜ばれたのに成長に従ってあれこれ欲求、欲望がついてきていませんか?その覆いに気がつき剥がしていくきっかけになっています。(まだまだですけど)
その玉ねぎの芯 剝いた先に何があるのか?そもそも「芯」があるのかわかりません。何もないかもしれない。それならそれでいいかな?と
だから雲は消せるんです(笑)
あれ?
ほらほら目の前の雲 きえろきえろって願うより「あの雲消せるで」って感じ。それが良い悪いでもない。
皆さんも 絶対この分野には行かない、触れないっていうところに顔出してみると、思わぬ気づきがあるかも。その時に今まで自分が持っているフィルターを外す、社会的地位とか全部取っ払って素の自分になれるかも。そして今まで当たり前のように思っていた価値観がぶっ壊れるかもしれません。それならそれでいいじゃない?
と思いながら窓の外に見える雲をさっきから消している吉原です。