8月15日。79回目の終戦の日。私は香川県三豊市で四国各地から集まった高校生向けのしこくGlobalネットワークサマーキャンプの真っ最中だった。代表を務めるNPO法人みんなの進路委員会では、海外にチャレンジをしたい四国の中高生を支援しており、今回は合宿形式で様々な大人たち(文部科学省トビタテ!留学JAPAN事務局の方や京都大学の物理学者など)との対話を通して、自身の進路を考える企画だった。
最終日を迎えたこの日は、キャンプを通した学びを高校生たちが発表した。「アメリカの大学で物理を学びたい!」「バレーボールの本番であるイタリアにチャレンジしたい!」世界を見据えた高校生たちの発表が本当に頼もしい。
「世界の海をまたにかける商船マンになりたい!」そんな高校生たちに負けず劣らずな大志を10代の頃の大叔父 靜雄は抱いていたという。母方の祖父 楠雄は昔から私を見るなり、「お前は兄貴の生まれ変わりのように似ている」と言われた。たしかに20代前半の靜雄の遺影は、本当に自分が映っているように思える。
靜雄は、いつか平和な時代が来た時に即戦力の人材として商船に乗るため、海軍に志願した。10代で海南島上陸作戦を経験。上官の命令で井戸の裏に隠れるおばあさんに手をかけたこともあったらしい。アザだらけの体で帰省してきたこともあったらしい。スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦、ソロモン海海戦などを戦い、ミクロネシアへ向かう途中に伊豆沖に沈んだ。
日本からミクロネシアに向かう道すがら、マリアナ諸島近海を通過する。父方の曽祖父 進章は、海軍第54警備隊としてマリアナ諸島にあるグアム島へ渡った。アメリカ軍の圧倒的な戦力に日本軍は玉砕。グアム島からの遺骨の帰還率はいまだに5%以下である。(平均40%ほど)
父方の祖父 典保は、亡くなる数ヶ月前。孫たちを集めて戦災孤児だった過去を話した。3歳で迎えた終戦。両親を共に戦争中に亡くし、2歳上の姉と2人ぼっち。親戚をたらい回しにされ、まともに学校に行かせてもらえず必死に牛の世話をした。今思えば、彼は字が書けなかった。どれだけ辛い日々だったか、弱音や悪口を決して言わない彼が語った苦しい過去。最初で最後だった。
進章の兄 杉光は郷土の部隊である陸軍44連隊(通称高知連隊)が戦うガダルカナルへと援軍に向かった。圧倒的不利な情勢下で上陸もむなしくニューギニアに散った。奇しくも沖では靜雄がソロモン海海戦などを戦っていた。この時の激しい戦いは、高知新聞社『祖父たちの戦争:高知連隊元兵士の記録』に詳しい。
父方の曽祖母ハツヨの弟 智は、インドネシアのサワラティ島へ配備された。アメリカ軍の飛び石作戦によりこの地では戦闘は起きなかった。だが、過酷な飢えが兵士たちを襲った。当時の記録に、「補給 全然なし 衛生 最悪」と書かれており、智も戦病死(おそらく餓死)と記載がある。この悲惨な日本軍の飢餓状態は、ちくま学芸文庫『餓死した英霊たち』に詳しい。
私はふと思う時がある。靜雄は沈みゆく船中で何を思ったのだろうか。進章は水平線を埋め尽くすアメリカ軍の大艦隊を見て何を思ったのだろうか。杉光はアメリカ軍の圧倒的な火力に飛び込んでいく最中、何を思ったのだろうか。智は飢えに意識が遠のく中、何を思ったのだろうか。
8月18日。松山で第6回しこくインターナショナルMeet-upという国際交流イベントを行った。私が代表を務めるNPO法人えひめインターナショナルMeet-upが、愛媛県内の外国人住民と日本人住民の相互理解や繋がり作りを目指して取り組んでいる活動だ。アメリカ・中国・インドネシアなど、多国籍なメンバーで松山鮨作りにチャレンジし、ボードゲームで遊んだ。
外国人参加者たちは県内の大学への留学生や地元企業で働く方々だ。国を超えて共に学び、共に働く。中には恋をして結ばれ、新たな命が生まれることも。世界の海を股にかけるほどではないが、靜雄が夢見た景色に近いものを私もいま見ているのかもしれない。少なくとも80年前の人々にとっては考えられないような光景だろう。そんなことを考えながら、東京行きのしおかぜに揺られていた。