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歩かなくてもいい街、歩きたくなる街

今回は抽象的なタイトルですみません。

前回「道路ってなんだろう?」の続編、今回は「街」について考えてみました。

「街」の大和言葉「まち」は、もとは「間道」の意味で、田んぼのあぜ道を指す言葉だったんだそうです。あぜ道で囲まれた田の区画を意味していたものが、平城京や平安京など道によって囲まれた区画、のちに都市空間を意味するようになったと言われています。「まち」と「みち」って密接な関係だなとは思ってましたが、語源からも繋がっていたんですね。

そんな街ですが、皆さんにとって「街」とはどんなイメージでしょうか。それは、歩かなくてもいい街でしょうか、それとも歩きたくなる街でしょうか。

昔はどこも「歩かざるをえない街」だった

  明治36年(1903年)の松山市中心部(*1)

時代は明治時代へと遡ります。

松山城が築城されたのが1602年。子規の句「春や昔十五万石の城下哉」は有名ですが、正岡子規が亡くなった翌年、1903年の松山の様子です。松山城の周囲に家々(黒い部分)が集まっていますが、それ以外はほとんどが田畑です。当時の松山市の人口が約3.3万人(*2)なので、街の規模としては現在の1/14くらいでしょうか。当時の市街地は現在の市内電車環状線の内側にすっぽり収まる程度です。

当時、身分の高い人は馬車や籠など使えたかもしれませんが、庶民の交通手段は基本的に「徒歩」です。みんなが街の中心部に集まって住んでいるので、徒歩で事足りたんです。

とはいえ、いつも歩くのは大変です。その頃、人類は鉄道という文明の利器を手に入れました。松山は全国的にも早く1888年(*3)には伊予鉄道が走りはじめていて、1903年の地図からも線路が読み取れるかと思います。駅まで行って鉄道に乗ってしまえば、その先は「歩かなくても」よくなったのです。

そして、4年後の1907年(*4)にはガソリン自動車が国内で初めて作られます。とはいえ当時自動車は超高級品ですので、庶民が乗れるようになるにはまだまだ時間が掛かりそうです。

自動車の普及で「歩かなくてもいい街」に

  昭和43年(1968年)の松山市中心部(*1)

時を経て戦後、1968年の松山です。当時の人口は約31万人(*2)なので、1903年のなんと10倍。現在の人口と比較しても約6割にまで人口が増えています。松山市駅の南側や道後温泉の方向にも市街地が広がっているのが分かります。

ここで一番大事なのは、市街地は広がったものの、まだ殆どの人々が「駅から歩いて行ける範囲」に住んでいるということ。

そしてこの時が、全国で自動車保有台数が急増する直前になります。1968年(昭和43年)に約410万台だった国内の乗用車の数は、3年で2倍(910万台)、5年で3倍(1,290万台)と、その後爆発的に増加していきます。増加の勢いは衰えることなく、平成20年頃になって伸びが落ち着くまでグングンと伸びていくのです。

  自動車保有台数の推移(乗用車のみ)(*5)

いつの間にか「クルマだけが走りやすい街」に

自分のクルマがあれば、家から目的地までドアツードアで行ける。いつでもドライブに行けるし、荷物も沢山運べる。当時3C(カラーテレビ、 クーラー、カー)と評されたように、1家に1台、さらには1人に1台ずつと、クルマは当たり前の道具として普及していきます。

当然ですが、これだけクルマが一気に増えたんですから渋滞もしますし、事故も起きます。少しでも安全で快適に自動車が通れる街にするため、新しい道路を作り、既存の道路も車が走りやすいように拡幅されていきました。その結果、多くの街が写真のようになりました。街を見渡すとクルマだらけです。

  中心市街地のアーケード街(岐阜市)
  郊外の幹線道路(松山市)

もちろん、クルマにとって走りやすい道路が大切なことは言うまでもありません。ハンディキャップがあるなど移動が少し難しい人も自由に移動ができますし、トラックなど私たちの生活を陰で支えてくれている「はたらく車」は沢山あります。救急車など緊急車両は1分早く到着できることがものすごい価値にもなります。地震など災害が起きても、災害に強い道路があれば支援物資をすぐに運ぶことができます。

一方で、歩行者の目線で見るとどうでしょうか。この街を見て「歩いてみたい」と感じるでしょうか?道路自体は広いですが、ほとんどがクルマのためのスペースになっているので、人が歩ける場所は端に少し「残されて」あるだけです。道路上では、人は儚くも主役ではないのです。

そして「歩きづらい街」に

とにもかくにも、自分のクルマがあれば街の中心部、駅やお店の近くに住む必要もありません。市内は沢山の車が集まるので渋滞しますし、郊外の方が広々として環境もいい。これまで田畑だったエリアを開発して、宅地やお店がどんどん作られていきました。

  昭和43年(1968年)と現在の比較(*1)

上の図は先ほどの1968年の地図と、現在の松山市中心部の航空写真を比較したものです。1968年時点ではまだ田畑が多くみられますが、現在の航空写真では殆どが宅地やお店、学校などに転換されています。「駅から歩いて行ける範囲」を超えて、どんどん郊外へと街が広がっていったのです。この傾向は全国的に見られますが、松山市の場合、1970年から2015年にかけて人口が1.4倍に増えた一方で、同じ時期に市街地の面積が3倍に増加しているというデータもあります。(*6)

さて、これから人口が減ります。

そして、いま直面しているのは高齢化です。高齢になり、クルマの運転が難しくなる人の数が増えてきました。痛ましい事故も各地で起きています。代わりに便利な公共交通があればいいのですが、多くの人が普段クルマを使っているので、本数が少ないとか、廃止になってしまった路線も少なくありません。そもそも、この50年で街のつくりが「クルマが走りやすい街」に変容してしまっているので、市内に徒歩や公共交通だけでは行けない場所、行きづらい場所が沢山あるのです。これでは免許を返納したとたんに、日常の買い物すら行けなくなってしまいます。

そんな課題を解決するため、たとえば自動運転、ドローン配送、病院のオンライン受診など、様々な新しい技術が開発されています。どれだけ私たちの生活が便利になるんだろうと楽しみではあるのですが、ますます「歩かなくてもいい街」に、さらには「家の外にすら出なくてもいい街」になるかもしれないと考えると、少し寂しい気もします。

いま見直されつつある「歩きたくなる街」

それなら、「街」って何のためにあるんでしょうか。

分からなくなってきたので、英語の力を借りてみました。街を英語にすると“city(シティ)”ですが、この“city(シティ)”は、ラテン語の“civitas(キウィタス)”が由来とされています。「市民(civis)」+「であること(-tas)」で“civitas(キウィタス)”(*7)。市民権を持った市民が活動する共同体という意味で使われはじめた言葉なんだそうです。なんと「市民」が主体の言葉でした。

そう、街の醍醐味は「多様な人が集まることで、新しい価値が生まれる」ことなんじゃないかと。そして、人々が交流するためには、「歩く」とか「動く」といった行為って案外大事なんじゃないかと。(今ふと、たてヨコ愛媛はバーチャルな「街」なのかもしれないと気付いたのですが、深入りすると長くなりそうなのでまた次の機会に・・・)

  イギリス・エディンバラの中心市街地

近年になって、人が集まるための街、「歩きたくなる街」を取り戻そうという動きが全国で広がってきています。広い道路の車線を減らして歩道を広げよう、なんて実験も全国各地で行われています。街にどんなものがあったら歩きたくなるのか、美味しいもの、楽しいこと、お洒落なもの、歩き疲れたらすぐに乗って帰れるような乗り物もあると良いかもしれません。そして、人が集まり交流することで新しい価値を生むための仕掛けも色々なことが考えられそうです。

  道路の車線を減らして歩道を広げる実験(千葉市)

歩かなくてもいい街、歩きたくなる街

さて、タイトルに戻りますが、「歩かなくてもいい街」と「歩きたくなる街」、双方ともメリット・デメリットがあり、どちらがいいという話ではないんだと思います。どっちも大切で、要はどうやって両立させていくか。一番いいのは、「歩かなくてもいいけど、歩きたくなる街」なのかもしれません。

結局終わり方も抽象的になってしまいました。「みち」も「まち」も、まだまだ奥が深そうです。


ABOUT ME
酒井 聡佑
1991年松山市生まれ。九州大学在学中の2011年に九州新幹線が全線開業。「なぜこの感動を四国では味わえないんだろう」という率直な疑問から、「四国の困っていることは新幹線で大概解決できるのではないか」と考えるに至り、以後ライフワークは四国新幹線。京大大学院で都市政策・交通政策を学んだ後、2016年国土交通省入省。主に道路計画の仕事をしています。
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