フランスのパリで世界初の哲学カフェが開催されて30年。ここ愛媛で、世界初の哲学飲み会「哲子の部屋」が開催された。哲子の部屋がここまで注目され、人々が熱狂するのはなぜなのか。その理由に迫ってみたい。
求められる哲学
今の社会に哲学が求められているのは明らかである。例えばビジネスの世界では、課題解決より問題発見、マネジメントよりリーダーシップ、モノからコト・・・と、従来のやり方の書き換えを迫られている。これらの流れに共通するのが、「あるべき姿」を思い描くという行為だ。まさに、「本質」と「あるべき姿」をキーワードとする哲学そのものである。あるべき姿を思い描くというのは、今の延長線を想像するのとは全く違う。本質的なものからゼロベースで、文明のエッセンスを取り入れながら組み立てるものである。と思う、哲子は。
奪われる哲学の機会
しかし、哲学が求められる一方で、私たちが哲学する機会は減ったのではないか。私は、SNSが哲学の機会を奪う一因になっていると思うが、最近はテレビでもSNSのコメントを紹介するようになった。哲学の反対は、思考停止である。世の中の正解っぽい答えが作り上げられることで、私たちは思考停止し、哲学する機会を失う。例えば、誰かの考え方に対して、自分がどう思うか、なぜそう思うか、を考える前に、この人がこう言うなら正しいのだろう、この発言をどう受け取るのが一般的な考え方だろう?という答え合わせの発想は浮かばないだろうか。
今の時代は流行り廃りが早いと言われるが、それもこの「答えを作る時代」が原因である気がしてならない。きっと昔は、いいと思われたものが流行った。しかし今は、流行っている(=作られた正解)からのっかっているものの、本当の意味で心がときめいていないものが多いのだと思う。そうやって次から次へと流行りが生まれると、答えを追いかけることに疲れるときが来る。
哲子の部屋へようこそ
哲子の部屋は、学問としての哲学とは無縁な人が集う飲み・・・集う場です。各自が自分の思う本質に近づけたらよく、近づけなくてもよく、何かの問いに対して結論を出すわけでもありません。要するに飲み会だろ、と言われても否定はできません。
前回の哲子の部屋では、ルールと倫理についての議論がありました。ルールを守るとしても、無条件でルールに従うのは思考停止です。物事の良し悪しを、ルールに沿っているかで考えてはいけない。哲学に基づいた自分の倫理観を大切にしなければならない。また、議論の場でルールと倫理をごっちゃにして議論をしていると話が嚙み合わないことがありますので、そこを切り分けるのも大事です。面白い考え方だと思ったのでご紹介でした。
しゃべりたいことはいっぱいあっても、言葉にならないこの思い。コロナの様子を見て、第2回哲子の部屋が開催されますので、ぜひご参加ください!