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たてヨコメンバーによるフリーテーマのコラム

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贈与の呪いと多次元への開け

前回は「たてヨコ愛媛」には実は「ななめ」が隠されているという話でした。

ななめを生み出すのは「贈与」であり、それは資本主義的な等価交換とは違うもので、でも「たてヨコ愛媛」には、そんな贈与をする人が大勢いると。 今回は贈与を受けた側、受けてしまった側のお話です。

お裾分けに困る

お裾分け(お福分け)という習慣があります。愛南町で生活していると、松山にいた時以上に多くあります。

実家から野菜をいっぱい送ってきたから、これ少しだけどどうぞ。きょう魚釣りにいって、たくさん釣れたから小さいけどどうぞ、と。時々は玄関のドアノブに知らないうちに野菜が入った袋がかかっていたりします(最近は中身を見れば、誰が置いていったのかだいたい分かるようになりました、笑)。

ありがたいけど、実はちょっと困ります。もらいっ放しにはできないからです。何か返さないといけない、という気持ちになります。でも、何を返したらいいか分からない、あるいはすぐその場で返すモノがない。この負担感、負債感を「贈与による呪い」と表現しているのが、近内悠太著『世界は贈与でできている』です。たてヨコ愛媛の前身といえる「NewsPicksユーザーグループ愛媛」。このNPの出版部門から出ています。

著者の近内氏は、あるラジオ番組でもこの本について話しています。音声メディアは、断片化された時間をターゲットにできる有望なメディアだと思います。たてヨコのイベントも、音声で追体験できたらいいなと思っていたりします。

閑話休題。スーパーでなら、白菜1つ何円、アジ1匹何円と示してくれています。「ほしい時、その場」でお金を払えばいい。これが等価交換です。兼ねなく、らくちんです。

でも、お裾分けをもらったままだとが重い。そこで持ってきてくれた人に「ありがとうございます、これどうぞ」と、千円札を出すとどうでしょう。とても失礼ながします。

なぜでしょうか? 理由は、お金=貨幣の暴力性です。

お金の暴力性

お金は共通の尺度として、相手と私、そして世の中全体に網の目をかけ、座標化します。白菜1個100円とか、白菜10tを半年かけて作るのに1日の労賃は何円というふうに。

とても便利だけど、その一元的な目盛りだけでは測れないものがあります(マイケル・サンデル著『それをお金で買いますか』)。

贈与にはそんな貨幣の評価基準に収まらない過剰なものがあります。それを無理やりお金の尺度に押し込めると、贈与独特の要素を無視する、ないがしろにする、とりこぼすことになります。だから、お裾分けに対して千円札を差し出すのは失礼ながしてしまう。

こうした問題を考え続けたのが、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユです。彼の哲学とまぜこぜになった小説群のエロティシズムは、詳細は割愛しますが、ちょっとぶっ飛んでいます。

NPの坂本大典社長は、もし次に別の仕事をするならエンターテイメントに携わりたいと言っていました。社会がコト消費化していく一方、コロナ禍で大打撃を受けたエンタメ産業は、構造は変わるかもしれませんが、決してなくならない、むしろ今後こそ隆盛していく可能性の高い産業です。その時に欠かせない要素で、多かれ少なかれ、ゆえに決して避けては通れないのが、エロスの問題です。

たてヨコ愛媛大人部、ってみんな大人なんですが、知性だけでなく、痴性を扱うことにも挑戦してみたいですね。

↑ピカデリーサーカスのエロス像(ノ゚∀゚)ノ ⌒

何をどれだけお返しすればいい?

再び閑話休題。お裾分けをもらった私は、いつかの機会に何かのモノで「お返し」しなければと考えます。大きな白菜1玉に何を返せばいいのか、釣り上げたアジ5匹に何を返せばいいのか悩みます。モノの価値が、彼と私、彼女と私で違うからです。

農家の息子の彼にとっての白菜、漁師の妻の彼女にとってのアジ、と私。贈り手が10の価値があると思って贈ってくれたモノに対し5だと(相手が)思うモノで返礼すると、相手は残念に思うし、私の負債も消えません。私としては贈り手が期待する10のバリューで、しっかり受け止めたい、受け止めたことを伝えたい。でも、相手の感じ方は正確には知れず、手探り。なので往々にして11とか12くらいの高めに価値を見積もって返礼します。

すると、最初に贈与した人が今度は被贈者、新たな贈与を受けた人になります。AがBに10の贈与をして、BがAに12で返礼する。AはさらにBに14で返礼の返礼をする。さらにさらにBはCにも10のうちの3くらいを分ける(これこそが本来のお裾分け)。すると、CからBへの返礼も生まれます。と同時にCはDにもお裾分けするかもしれません。

こうして人と人の間を行き来するモノの数や経路が、どんどん複雑化、多数化していきます。ただし、この語り口自体が、すでに価値を一元的な共通の尺度で数量化する貨幣的な発想を含んでいます。現代の私たちは、こういう「世界は共約可能である、共通の尺度をもって意思疎通できる」という思考からなかなか逃れられません。

本当はどうやっても「他者とは共有できないもの」を抱えているのに。「正しく」お返しなどできないのに。こうした私的領域、他者と共有しえない絶対的な秘密を回復すること、意識できることに、価値が出てくるのではないかと考えています。お裾分けというshareの話をどんどん進めていくと、どうしようもなくshareできないものが浮かび上がってきます。

面白いのは西洋と違って日本では、かつて貨幣にも呪術性があると言った人がいます。日本中世史の歴史学者の網野善彦です。ある対談でも、流通手段というより属人的なモノとして「銭そのものに呪術的な性格が古く(は)あった」と述べています。

しかし、モノや貨幣に備わる呪術性、過剰で余分なものをもはや感じない人がいる、増えているかもしれないという話を最初の横道で触れたラジオ番組の中で、社会学者の鈴木謙介氏が言及しています。

付き合っていた相手からもらったモノを、別れたら売る。別れたらメルカリですね。これは単なる打算的な行為なだけでなく、モノが帯びる属人性、「贈与による呪い」を祓う行為という側面がある。ここまでは、昔からよくある話。

おもしろいのは、最近の若い人の中には、付き合っている最中に彼氏彼女からもらったモノをなくした時に、なんの後ろめたさなくメルカリで同じモノを買えばいいと思っている人がいるというエピソードです。モノの呪術性が弱まり、貨幣的な一元的世界、あらゆるものが交換可能に思えているのかもしれません。なんでもshareできる世界。商品経済の全面化。

次元を増やそう

ここまであっちこっちへ脱線させつつ話を展開してきました。貨幣を尺度とする1次元を、贈与という資本主義とは別の次元で贈り贈られを繰り返す中で2次元目を加えること、さらにその話をラジオやエロスへ脱線させて3次元目以上に世界を広げること。この次元数を増やすと世界が豊かになるというのが小山宙哉著『宇宙兄弟』にうまく紹介されています。

1次元の直線の上しか歩けない蟻がいます。すると直線の上に石を置かれると進めなくなる。 でも、2次元に世界を開いて、横から回り込めば先へ進める。

「えっ線から出てもいいの!?」

「誰がダメっつった?」

その後みんなの意識が2次元になれば誰もが向こう側へ続いて行ける

しかし今度は平面上を進む蟻の前に壁が立ちはだかる。 でも、3次元に世界を開いて、壁をよじ登れば先へ進める。

何匹かの勇敢なアリが命をかけて上へ登ってみる

登ろうとしないアリたちに批判されているけど

それでも行く

上下の動きを手に入れた彼らは「3次元アリ」となり

新たな世界への道をつくる

https://koyamachuya.com/media/manga/comic3/

だから大いに困り、悩みながらお裾分けを広げよう。時にはエロスや宇宙のことを考えながら。

いざ、新たな世界へ

秀野太俊

ABOUT ME
秀野 太俊
現在、高知との県境の愛南町に在住。物事を抽象化して深堀するのが好きですが、それが記者の仕事に向いているかどうかはまた別の話